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古城の町 丸岡観光スポット ベスト5

かつては平泉寺と共に一大勢力を誇った

新田義貞公の墓所
明智光秀10年間居住

日本の現存12天守のひとつ

福井県内最古の民家

北陸では最大規模の古墳群、


豊原六地蔵

 豊原三千坊史料館

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 県総合グリーンセンター

豊原寺跡

称念寺

              丸岡城(国の重要文化財)

千古の家 

六呂瀬山古墳群

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丸岡観光情報センター(建築中)



丸岡藩砲台跡

城公園内にある歴史民俗資料館
丸岡は城下町として発展した。歴代城主ゆかりの武具、古文書、資料等が展示されている。

柴田勝家の甥の柴田勝豊が天正4年(1576)に築城、寛永5年(1628)に丸岡藩初代藩主本多成重が二層三階建ての天守へ、日本の現存12天守のひとつ。

丸岡城へのアクセス方法
○北陸自動車道丸岡ICより車で3分
○国道八号線より
福井市方面から一本田中第2交差点を右折し直進約500m
○JR芦原温泉駅より車で約10分 
路線バスで約20分

駐車場案内
○霞ケ城公園横の一筆啓上茶屋前駐車場 は無料
○丸岡図書館北隣りの駐車場も無料
 歴史民俗資料館 霞町4-12
    電話0776-67-0001

丸岡藩砲台跡:三国町梶にある。
丸岡城の不明門:城の東側にあった不明門は,野中山王の高椋家に移されている。
 

丸岡藩ゆかりの寺

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篠岡23-8には
高岳寺:有馬家の墓所あり
 

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巽3-3には
本光院:
本多家の墓所あり

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丸岡の特産やお土産品
おろしそば、油揚げ、
ソースカツ丼
越前竹人形、越前織、浴衣帯

 
お休み処  
○一筆啓上茶屋
 霞ケ城公園駐車場前
 ℡0776-66-5880
  営業時間10:30~16:00
  定休日火曜日

○城小屋「マルコ」
℡0776-65-9912
○大宮亭
℡0776-66-8787 
○五月ヶ瀬
℡0776-67-5600
○餃子の王将
℡0776-67-1444
○ミルクハウス
℡0776-66-0936
○ヨーロッパ軒
℡0776-67-0843
〇西洋菓子倶楽部
 ℡0776-67-2227

 

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石城戸3-22には
有馬家の菩提寺 白道寺

石城戸4-13には
有馬家の菩提寺:台雲寺

霞町3-10-1には 手紙の舘(
(日本一短い手紙コンクール作品展示)

野中山王のT家には丸岡城の不明門が移築されている。

丸岡城観光の詳細は、次の『丸岡城百科』の①~⑦にまとめてあります。

丸岡城あらかると

明智光秀、丸岡城築城に関わる?

丸岡城本丸案内図

②天守からの眺望(観光名所解説

丸岡城観光PRポスター

丸岡城観光ガイド本紹介

天守周辺の顕彰碑・石碑の紹介

⑥現存12天守とは

 

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  siyu

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 唐門の奥に、木立に囲まれた新田義貞公の廟所が現存している。墓は高さ2.6m余りの大きな五輪石塔で、天保8年(1837)、義貞公の500回忌にあたり、福井藩主松平斉善(なりさわ)が義貞公の古い墓石を埋めてその上に建立したものという。 福井県指定の史跡
長林山称念寺 丸岡町長崎19-17電話0776-66-3675   

 712年に泰澄太師が創建したと伝えられ、南北朝時代の新田義貞公の墓所 特に江戸幕府をはじめ各時代の将軍に保護されてきた。文化財が多く現存している。

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境内に新旧2基ある。

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月さびよ
         明智が妻の
                咄せむ
元禄2年(1689)8月 松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り,明智光秀の夫婦愛の話(1560年代頃)を聞き,感激して詠んだ句である。
 
1556年頃光秀の居城であった明智城は斉藤道三の嫡男に攻められ、逃亡生活へ、称念寺の門前で密かに貧しく生活していた。妻の煕子は自分の黒髪を売って、銭に替え夫の面目を立てたという。


光秀の木像(江戸時代作と見られる。)
目には水晶板をはめ込んである。
   (称念寺所蔵)

○JR春江駅東出口より徒歩約3.6km(タクシー有り 約8分)
○北陸高速道路 丸岡ICから車で約6分
         (一本田交差点経由)
○丸岡城より 徒歩約3km (車で約7分)
○本丸岡駅よりJR丸岡駅行き路線バス (便少ない)
 舟寄バス停で下車し 徒歩10分

 明智光秀が称念寺の門前に住んでいた頃、永禄6年(1563)に妻の煕子の三女(二女説,四女説もある)お玉が生まれた。お玉は7歳の頃まで長崎地区と福井市東大味で幼少期を過ごした。
 その後滋賀県坂本城で過ごし,15歳の時,織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぐ,天正10年(1582)父の光秀が本能寺で主君の織田信長を討った(本能寺の変)ことから,お玉は「逆臣の娘」となり,約2年間丹後の味土野に隔離幽閉していたが,羽柴秀吉の取り計らいで,細川家の大坂屋敷に戻された。
 その頃から,お玉はカトリックの教えに心ひかれて,やがて,洗礼を受け,ガラシャの洗礼名を受ける。
 関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600)7月16日,西軍の石田三成は細川家のガラシャを人質に取ろうとしたが,ガラシャは拒絶し,次の日三成は強行するが,三成の兵に囲まれたガラシャは自分の家老に槍で部屋の外から胸を貫かせて亡くなった。38歳だった。
 三成のガラシャ人質作戦の失敗が西軍の関ヶ原の敗戦の一因となった。


細川ガラシャ像


掛軸の(作者不明、芭蕉直筆とも見られる。?)
        (称念寺所蔵)

像高27cm 狩衣、黒漆塗り

掛軸「月さびよ・・・咄せむ」 縦23cm横30cm

大阪カトリック聖マリア大聖堂前

712年に泰澄太師が創建したと伝えられ、南北朝時代の新田義貞公の墓所がある。特に江戸幕府をはじめ各時代の将軍に保護されて、文化財が多く現存している。

他阿真教上人像

七重の義貞公墓石

阿弥陀三尊来迎仏

紙本墨書称念寺縁起

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   他阿真教上人は一遍上人が開いた時宗の2代目の上人で,正応3年(1290)に称念寺を念仏道場とした。 称念寺本は現存する最古の他阿真教上人像である。 絹本著色 鎌倉時代の作   国指定重要文化財
【他阿真教上人】(1237~1319)一遍上人の一番弟子

   唐門の奥に、木立に囲まれた義貞の廟所が現存している。墓は高さ2.6m余りの大きな五輪石塔で、天保8年(1837)、義貞の500回忌にあたり、福井藩主松平斉善(なりさわ)が義貞の古い墓石を埋めてその上に建立したものという。 県指定の史跡

   阿弥陀如来,観音菩薩,勢至菩薩の立像の三尊仏である。木造で鎌倉時代末期のもの推定され,称念寺縁起によると,豊原寺から移されたものである。 坂井市の指定文化財 

   長禄3年(1459)1月 第17代遊行上人が制作したものである。称念寺は泰澄太師が創建し,時宗の念仏道場となり,新田義貞公の墓所であることが料紙17枚に書かれている。
    
坂井市の指定文化財

天皇宸翰(てんのうしんかん)

浄土三部経

九重の石塔

朝倉系図

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   天皇の勅願寺であった称念寺には,寛正6年(1465)の後花園天皇の綸旨が残っている。 また,後奈良天皇,霊元天皇の綸旨や戦国大名の古文書等も大切に保管されている。     
坂井市の指定文化財 
 (綸旨:天皇の命を下に伝達する文)

   浄土教の根本経典は無量寿経上・下・観無量寿経・阿弥陀経の4巻に分かれている。いずれも斐紙に銀泥堺線を引き,墨書で書かれており,見返りには三尊迎光図が描かれている。鎌倉時代の作  福井県指定文化財

   銘文に観喜院の菩提を弔うために寛永16年(1639)10月8日に建立したとある。当時新田義貞公300回忌にあたり福井藩主から寄進を受けているので,この石塔も福井藩主の松平氏の寄進と思える。坂井市の指定文化財

  越前の戦国大名朝倉氏の系図で,縦15.5cm横23.5cmの冊子本である。内容「続群書類従本」と同じである。この系図の見返墨書によると,慶長19年(1614)とあり,現在発見されている朝倉系図の中では最も古いものとして貴重である。坂井市指定文化財

寄進状や禁制    

遊行上人縁起絵巻断簡模写 

松尾芭蕉句碑

義貞公の正一位顕彰碑

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朝倉敏景,織田信長,柴田勝家,羽柴秀吉等の大名からの寄進状や禁制等が多数残されている。左の写真は天正元年(1573)織田信長が朝倉攻めに際し,称念寺に与えた強奪,乱暴,放火等を禁じる禁制である。

正応3年(1290 )他阿真教上人の越前布教の様子が描かれている絵巻の断簡の一部である。永徳元年(1381)頃 阿弥陀三尊来迎仏像と交換に,この絵巻を称念寺から豊原寺へ納めた。

             あけち    はなし
月さびよ 明智が妻の咄せむ
元禄2年(1689)8月8日松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り,明智光秀の夫婦愛の話(1560年代頃)を聞き,感激して詠んだ句である。

明治天皇が義貞公に正一位を授けた。この碑はその顕彰碑である。大正の再興期に建立されたが、昭和23年の福井震災で碑の上部が折れたままになっている。

他阿真教上人座像

十一面観音菩薩坐像

白山三神木像

一遍上人立像

令和4年3月に時宗総本山の清浄寺から拝領した木造寄木造りの僧像。座高90cm

白山信仰の本地仏である。木造で座高25cm、江戸時代の作

他に例のない白山の三神像。中央の御前峰の貴女は十一面観音仏、左側の別山に立つ神聖観音仏、右側は阿弥陀如来像である。神丈はいずれも約17cm
江戸時代の作

時宗の開祖一遍上人像の木造で、福井震災で破損したので、京都の仏所で同じ大きさで模刻したものである。像丈約38cm

 AKECHI

明智光秀公が織田信長に仕える前、称念寺の門前に約10年間居住していた。2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場した。称念寺と明智光秀公の関係を詳しく、解説します。(以下の4枚分の資料)

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 千古の家(坪川家住宅)は桁行14.5m 梁行10.3mの木造建物で、屋根は入母屋造りで茅葺き、妻入り背面は寄せ木造り  構造や手法から、県下最古の民家として貴重な文化財です。 国の指定文化財(建造物)

入場料大人500円小・中学生300円午前9時~午後5時 水曜日休館 冬期は積雪のため休館になることがあります
福井県坂井市丸岡町上竹田30-11
   電話 0776-67-2111

坪川家の庭園

江戸時代中期の元禄~宝永頃(1688~1710)につくられた、小規模な池泉回遊式庭園である。庭園には三尊、蓬莱、須弥山の石組がみられ、宗教性、思想性を内蔵した「心の庭」、「祈りの庭」を特徴としている。300年の長きに亘って、吹雪や天災に耐えてきた貴重な文化遺産である。

竹田地区には、龍ヶ鼻ダム、たけくらべ広場のキャンプ場とたけくらべ温泉宿があり、多くの人々の憩いの場となっています。
 
龍ヶ鼻ダム概要
高さ79.5m 長さ215m 総貯水量10,200,000立方メートル 昭和63年(1988)に完成。  坂井平野に住む人々の豊かな暮らしを支えている。
龍ケ鼻ダム管理事務所:上竹田50-56-2
電話0776-67-2841 

 

竹田峡谷

交通アクセス 
○北陸自動車道丸岡ICから長畝回り車で約15分 
○国道364号線永平寺町から上久米田交差点右折約10分
○JR福井駅から京福バスにて「本丸岡」行終点(30分)で下車。丸岡バスに乗りかえ「竹田」行終点(20分)より徒歩1分。

丸岡温泉たけくらべ
 

竹田川は丈競山の東北の加越山地に源を発し、竹田深山の谷水を集めて上竹田橋まで約10kmの峡谷部をなし、またこれより竹田盆地の水流を集めて、川上橋までの約8kmの峡谷部をなしている。 その後約27kmの平坦部を曲流して三国に至り,九頭竜川に注いでいます。

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四季の風情豊かな竹田川の渓谷のほとりにあり、八角堂大浴場が特徴、泉質はカルシュウム硫酸塩泉で、リュウマチ、神経痛、冷え性等に効能がある。
100人が宿泊でき、宿泊者はゲートボール場、テニスコートの使用は無料、近くにキャンプ場、龍ヶ鼻ダム、千古の家等の観光地ある。日帰り休憩 大人500円、小人250円
丸岡町山竹田88-8 ℡0776-67-2333
 

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  丸岡の市街地より東方約4km山麓の田屋地区の谷間一帯に豊原寺跡がある。この豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師によって開かれ、大師自らが11面観音を刻み、豊原八社権現を祀り豊原寺を建立したと「白山豊原寺縁起」に記載されている。100年後の天長年間には昌龍和尚が衰微した豊原寺を復興させた。その後、越前の豪族であった藤原利仁は豊原権現に帰依して多くの土地を寄進し、その子孫で越前押領使藤原以成は5社の霊廟その他500余坊を建立し荘園を寄進した。「朝倉始末記」によると、藤原衆徒は越前で最も勢力のある寺院に成長し、平泉寺と共に越前僧兵として多くの戦功をたてて活躍した様子が書かれている。
 天正3年(1575)には一向一揆が豊原寺を本拠地としたため織田信長によって焼き払われ、焦土と化した。その後、信長は柴田勝家の甥で柴田勝豊に4万石を与え、豊原に山城を築城した。勝豊は豊原の地83石を与え坊頭として東得坊、西得坊を建て、伽藍を整備し、豊原寺を再興した。天正4年(1576)には、この山城を現在の平地城の丸岡城に移築した。豊原に残っていた寺院の多くも、これに従い、住民と共に丸岡街に移住した。
 その後、豊原寺は福井藩主や丸岡藩主の支援もあり、越前国33番札所となり、伽藍の整備も続き、白山信仰の霊地として繁栄していた。しかし、明治2年(1869)に華蔵院焼失し、更に神仏分離令より豊原寺は次第に廃墟化して、住民も次第に下山し、過疎化が進み、昭和38年(1963)の豪雪以降、ついに廃村となった。
 平成11年(1999)有志により、豊原寺史跡保存会が平成19年(2007)には「のうねの郷づくり推進協議会」が結成され、史跡保存活動が開始されている。(豊原史跡保存会10周年記念誌より引用) 豊原史跡保存会事務局 丸岡町田屋77-46 
電話0776-66-6188 

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豊原三千坊史料館
 平成23年に豊原寺の末裔の豊原春雄氏が豊原三千坊史料館を完成させました。かつての豊原寺の栄華を偲ぶことができます。予約制で見学できます。
丸岡町田屋77-44℡0776-66-6188

豊原六地蔵
 
田屋集落から六本木参道を登ってくると、旧豊原村の入口にある六地蔵が迎えてくれる。
 

木造薬師如来坐像

 平安時代後期の作
座高50.5cm

 

木造地蔵菩薩立像
 
 
旧豊原村の地蔵堂に安置されていた。高さ約2mの菩薩像
 

全盛を極めた頃の豊原寺絵図文化財ガイドブック豊原寺跡(丸岡町教育委員会編)より、転写加工

とその周辺

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越前竹人形の里

昭和60年に竹人形の里ができ、越前竹人形の竹細工の工房があり、竹工作教室では体験学習もできます。竹細工工芸品、越前の土産物の販売もあり、連日観光バスが出入りしている。
丸岡町上久米田63-1 電話0776-66-5666 
営業時間9:00~16:30
休館日12月26日~12月31日
工房見学料(創作竹人形館を含む)
一般300円小・中学生150円身体障害者無料
         

 六呂瀬山古墳群

六呂瀬山古墳群は上久米田の六呂瀬山山頂に4基からなる古墳群です。1号墳は4世紀頃の築造で、全長約140m後円部径約78m高さ13m前方部幅約58m同高さ11mの北陸最大規模の前方後円墳です。3号墳は5世紀の初めの築造と推定されています。ともにこの坂井平野地域を支配した豪族の墓と考えられています。国の重要指定史跡
 

福井県総合グリーンセンター  
(通称たまねぎハウス)、
グリーンパーク 、ウッドリーム
12,000㎡の園内には、各種樹木園、芝生広場、大型遊具ど色々な施設が整備されています。また、通称「たまねぎハウス」のドーム温室には熱帯・亜熱帯果樹、熱帯花木、多肉植物、ヤシ類、観葉植物等2,400本が展示していてる。
 福井県総合グリーンセンター丸岡町楽間15
 電話0776-67-0002 FAX: 0776-67-0004
開館時間午前9時~午後4時30分
休 館 日毎週月曜日  入場無料
国民の祝日(4月29日、5月5日は開館)
12月28日から1月4日

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交通アクセス

越前竹人形の里 
○国道364号線 永平寺町より 上久米田交差点手前約100m右側に越前竹人形の里
六呂瀬山古墳群
○国道364号線 永平寺町より 上久米田交差点を右折、山中方面へ
  約3分で、六呂瀬山古墳群
福井県総合グリーンセンター、グリーンパーク
○上久米田交差点左折し、直進約2分で、グリーンパーク
○JR福井駅からえちぜん鉄道勝山永平寺線に乗車、松岡駅下車、徒歩約30分。
○路線バス 京福バス福井駅前11番 福井大(医学部) 行に乗車、福井大(医学部)下車、徒歩約15分

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振媛(ふりひめ)、彦主人王(ひこうしのおう)、男大迹王(おほどのおう):後の継体天皇

  ここ丸岡は古代から地方豪族が居住して栄えた所で、丸岡町高田地区には継体天皇の母『振媛』の里:高向の宮跡があります。振媛は垂仁天皇7世の孫と云われ、美貌豊かな方で、西暦450年頃、近江の高島郡の三尾に居られた応神天皇の血をひく『彦主人王』に嫁ぎ、皇子『男大迹王』が誕生しました。まもなく彦主人王は亡くなり、振媛は郷土の高田に戻り、皇子を養育されました。男大迹王は、やがて越の国を統治する大王となり、福井平野や坂井平野の治水事業に尽力されました。そして西暦507年に58歳で第26代の継体天皇(在位:西暦507年~531年)となられました。現皇室の先祖は継体天皇と云われています。ちなみに現令和の天皇は126代です。

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継体天皇石像(足羽山)

振媛想像図

高向の宮跡(丸岡町高田)

彦主人王の御陵(滋賀県高島市)

 

振媛が近江の高島の彦主人王に嫁いだ理由:彦主人王の古里は丸岡町坪江地区?

 日本書紀では 近江の三尾郷の別業(別荘)に住む彦主人王とある。三尾郷は当時越前にもあった。越前の三尾郷の別荘が近江の三尾郷にあったと考えられる。越前の三尾郷は現 丸岡町坪江の横山古墳群の眼下から、現あわら市御簾尾周辺に至る所と考えられる。現 坪江の横山神社は継体天皇をお祀りしており、当時この一帯を支配していた三国公や三尾氏の地方豪族の地であった。彦主人王はこの三国公や三尾氏の血をひく、一族であったのではないか。彦主人王は当時製鉄業の特権を有して、その技術指導のために近江髙嶋郡三尾郷の別邸に住んでいた可能性が高い。王は古里からお妃をと高田の振媛をもらったのではないか。詳細は、たかむくのまち協が令和5年5月に発刊した別冊「たかむく玉手箱」10~11頁参照してください。


越前の三尾郷と御簾尾


 
男大迹王は父(彦主人王)のふるさと坪江によく通い、天皇即位のための使者(大伴金村)を坪江の隣にある女形谷の天皇堂で迎えたのだろう。なぜ女形谷?

○当時の竹田川の川舟の舟着き場が女形谷地籍にあった考えられる。
○当時、男大迹王と倭媛の御殿が女形谷地籍にあったからと考えられる。倭媛とは椀子皇子の母

 横山古墳群の眼下に御簾尾(みすのお)集落がある。ここは三尾(みお)と呼称されていた。熊坂川、清滝川、竹田川の3つの河川が尾を引くように流れる土地、つまり三尾と呼ばれてた。いつしか「三尾」が「御簾尾」と呼ばれるようになった。理由はこの地か継体天皇ゆかりの地となったことからではないか。先人たちは「三尾」を敬って「御簾(みす)尾」となり、「みすのお」となったと考えられる。 

 

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女形谷(おながたに)の天皇堂
            :丸岡町女形谷

男大迹王が大和からの使者(継体天皇として
即位のための使者)の大伴金村を迎えた接
見の場所と云われている。

 

横山神社: 丸岡町坪江

式内社で継体天皇を祀る。坪江郷34ヶ村の
総社として信仰されている

 

椀(わん)貸(かし)山古墳
       :
丸岡町坪江
平地に築かれた全長45mの前方後円墳である。6世紀前半の古墳と推定され,被葬者は継体天皇の皇子である椀子皇子の墓と伝えられている。

 

豊原寺跡

称念寺

              丸岡城(国の重要文化財)

千古の家 

六呂瀬山古墳群

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丸岡町内各地に、丸岡町出身や町ゆかりの文人たちの足跡があります。

中野重治19021979
中野鈴子(1906~1958)
生家跡 
一本田11-13 中野家跡地

松尾芭蕉句碑                   (1644~1694)
       称念寺境内 

内田忠詩碑
 
 (1905~1944)
          平章小学校前庭

蓑笠庵梨一墓
      
(1714~1783)
       台雲寺内 
                          

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   重治は明治35年、一本田に生まれる。 「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」など代表的プロレタリア詩を発表。プロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍した。彼の代表作には、幼年時代を描いた自伝小説「梨の花」や「むらぎも」等がある。重治の妹鈴子(明治39年生まれ)もプロレタリア文学活動に励み、雑誌「働く婦人」の編集や、詩集「花もわたしを知らない」を出版している。この生家跡には故宇野重吉氏を介して丸岡町に寄贈されたもので、東京から書斎が移築されている。また敷地内に鈴子の歌碑もある。

 月さびよ
 明智が妻の咄せむ

  元禄2年(1689)8月 松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り,明智光秀の夫婦愛の話(1560年代頃)を聞き,感激して詠んだ句である。
 1556年頃光秀の居城であった明智城は斉藤道三の嫡男に攻められ、逃亡生活へ、称念寺の門前で密かに貧しく生活していた。妻の煕子は自分の黒髪を売って、銭に替え夫の面目を立てたという。
  
称念寺 長崎19-17
 電話0776-66-3675

  明治38年(1905)、丸岡町霞1丁目で生まれた。小さい頃から自由律俳句を学びました。昭和2年春、東京に行き、活躍が始まりました。ペンネームは内田創平といいました。詩人として活躍し、いろいろな詩集を出し活躍しました。昭和19年5月 40歳で亡くなりました。現在丸岡五徳会を中心に内田氏の功績を後生に伝承させようと、昭和52年~平成14年まで小中学生対象の「創る賞」詩コンクールを開催していた。
 
平成4年建立(丸岡五徳会)
 平章小学校 霞2-41
 電話0776-66-0059

   梨一は正徳3年(1714)生まれ、古典や俳句つくり、算数が得意で、50歳のときから、丸岡に住み、藩士に学問を教えていた。この塾を蓑笠庵(さりゅうあん)と呼びました。彼の遺徳を受け継ぎ、現在でも町俳句梨一賞が受け継がれている。
    
坂井市の指定史跡




 台雲寺 石城戸4ー13
  電話
0776-66-2364

深田久弥句碑
1903〜1971
 
 城のまち会館駐車場内
皆吉爽雨句碑 
 (1902〜1983)
     
まちなか公園内 
開高健句碑
 
(1930~1989)
      一本田福所区民館前

中野重治記念文庫
   
 丸岡図書館内

 

 

 

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  深田久弥は、石川県大聖寺町(現在の加賀市)生まれの作家。旧制福井中学(現 福井県立藤島高等学校)から第一高等学校に進み、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合う。また山岳部員として山にも親しんだ。特に山に関する文章の執筆活動を行い、昭和38年に発表した『日本百名山』は高く評価され、読売文学賞を受賞した。丸岡町とは丸岡成人大学の講師を長く勤めた関係で、平成7年6月に丸岡五徳会が丸岡成人大学30周年を記念して、久弥句碑を丸岡福祉センクー前庭に建立した。 昭和45年5月の成人大学で詠んだ句が碑 文に刻まれている。
   碑句 「城尊し 古き城 更に尊し」
         城の町会館 霞1-13-1
      電話0776-66-1276

   明治35年、福井市宝永に生まれ、叔父の皆吉家に養子として入った。養父の皆吉五郎は有馬家の家老職で維新後も官界にあり、明治37年から故郷丸岡町の町長を8年間勤めている。その後丸岡から三国へ、そして福井へと移っている。爽雨は丸岡の小学校から三国の小学校へ転校し、大正3年に福井中学に入学している。俳句をすすめられ俳号も爽雨と命名された。大正9年「ホトトギス」に初入選し、昭和7年にはホトトギス同人に推され、昭和13年には、第1句集『雪解』の誕生をはじめ『寒林』『雲坂』『緑蔭』と、戦後も創作活動をつつけ、「爽雨俳句の確立」となった。霞ヶ城(丸岡城)公園に父五郎(俳号五浪)との父子句碑が建つ。平成20年には五徳会が文化少年団創立10年記念して句碑を建立した。    開高健の祖父母が丸岡町一本田福所の出身で、丸岡町ゆかりの文学者としての偉大な功績を啓蒙し後世に伝承するために平成5年11月、ふるさと一本田福所に開高健文学顕彰会が発足。そして、翌6年10月文学顕彰碑が建立された。
 開高健は、28歳の時『裸の王様』で、第38回芥川賞を受賞。その後、朝日新聞社臨時海外特派員として、ベトナム戦争戦禍の状況をルポタージュ。また、世界各地を釣り紀行しその一連の業績により、菊池寛賞を受賞するなど、従来の日本文学の枠を超えた行動派の作家だった。常に人間の原点と社会の組織に目を向け、現代社会と取り組むエネルギッシュな作家的姿勢を一貫した人である。   碑文『悠々として急げ』

   丸岡町一本田生まれの重治は、昭和期に活躍したプロレタリア小説家、評論家、詩人である。坂井市丸岡図書館内には、重治記念文庫があり、蔵書13,000点と遺品、原稿等が納められている。
  丸岡図書館
 霞3-10-1
    電話0776-67-1500

中野重治記念文庫、小葉田淳記念文庫、今川節の部屋)

 昭和58年に完成した町営図書館(現在は坂井市立丸岡図書館)郷土の偉人である、中野氏・小葉田氏の記念文庫もある。

筝曲「秋風の曲」の作詞者
蒔田雁門
 ~嘉永3年(1850年)                 

一筆啓上賞入賞作品掲示板
 (丸岡城公園 本丸登り口階段脇)   

一筆啓上賞事務局

丸岡町文化振興事業団

 小葉田 淳 記念文庫
 
(1905~2001)
 
霞3-10-1 丸岡図書館内

 

新一筆啓上賞の作品応募や募集要項等の問い合わせ先
〒910-0298 
福井県坂井市丸岡町霞町1-41-1 TEL 0776-67-5100  FAX 0776-67-4747 

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  丸岡町高柳墓地に「殿様の墓」と呼ばれている一際大きい墓石がある。江戸後期の代官「蒔田雁門」の墓碑である。雁門は少年の頃より勉強を大変好み,良書は金銭を惜しまず買い求めて研究した。また,箏曲に優れ,漢詩で有名な「長恨歌」を和訳した。雁門は箏曲の第一人者である京都の光崎検校と親しく,光崎の作曲した名曲「秋風の曲」を後世に伝えたいと,天保8年(1837)2月に「箏曲秘譜」を刊行し,「高向山人」として序文にその由来を述べている。晩年は福井に出て経史と韻学を教えた。

「日本一短い手紙文コンクール」の一筆啓上賞は全国に一大ブームを巻き起こしている。 1993年からスタートして2002年までの10年間執り行われた日本一短い手紙「一筆啓上賞」はより進化させる目的の下、2003年からは「新一筆啓上賞」と名前を改めて実施されています。毎年約4万通の応募があります。令和4年度で第30回を迎えました。これまでの入賞作品の一部は本丸への登り口の石段脇の掲示板に展示されています。

 平成5年から本事業団で始めた一筆啓上賞の由来は、丸岡城にある「一筆啓上 火の用心 お仙なかすな 馬肥やせ」の句碑です。日本一短い手紙が全国で大ブームを呼び、一躍丸岡文化を全国に轟かした。平成15年からは、この手紙文は往復書簡となり、現在は新一筆啓上賞として心のこもった短い往復書簡を応募している。また、小さいかまぼこ板に絵を添えるコラボ作品も募集している。 

 明治38年 丸岡町本町3丁目に生まれる。京都帝国大学文学部卒業後 台湾の大学、京都大学、京都女子大学の先生を長年なさり、だれも手がけていなかった鉱山学、外交貿易等を研究して、今日の歴史学界に多くの研究者を育てて、平成8年には文化功労者に選ばれました。
 丸岡図書館には、これまでの先生の著書をはじめ、約18,000冊の書籍が町へ寄贈されています。平成12年5月に丸岡の6人目の名誉町民となっています。平成13年8月に96年間という歴史学一筋に生きた先生です。
 

   

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