1556年 仕えていた齋藤氏(齋藤義龍)に敗れて、逃亡の身となり、美濃から越前に逃れて来る。 (光秀と妻の煕子、お供は従兄弟の三宅弥平次で、油坂峠を越えて)
○一乗谷城下を見学する。称念寺を訪ねる。門前の空き家に住むようになる。 ○称念寺の光明院(現在の商事会社・銀行)で働く。 ○山代温泉によく行き、医学や薬学を学ぶ。修業に大坂堺や毛利家へ出向く。 ○舟寄の黒坂備中守景久(朝倉一族)の目に留まり家臣となる。朝倉義景と会う。 ○1563年お玉(娘後の細川ガラシャ)が誕生する。 ○門前で寺子屋を開き、住民の教育や医療に携わる。
1556年〜1565年(約10年間)戦国武将としての教養を習得する。称念寺門前で生活:称念寺の遊行僧から、全国の様々な情報を学ぶ。遊行の従軍僧から医学薬学の知識を習得、称念寺光明院で経営学、金融学、交渉術を学ぶ。時宗を通して、宗教や人間愛、倫理を学ぶ。武者修業で、鉄砲術・武術・戦略術を学ぶ。和歌連歌等、文化的教養を学ぶ。
一乗谷朝倉氏に仕えようと仕官を願い出ていた頃 1565年
5月19日に
一大事件勃発一
第13代将軍足利義輝が三好義継・松永久秀らに襲撃され殺される。
当時、義輝の弟(覚慶:かくけい)は、奈良の興福寺一乗院門跡(住職)をしていた。三好・松永等に監禁された覚慶を救出し保護する場所を探していた。覚慶の母方の叔父であった大覚寺義俊、細川藤孝らは、盟友である光秀に相談。光秀はその救出作戦に参加することになる。
(覚慶を救出し保護し、次の足利将軍に擁立する作戦)
大覚寺義俊、細川藤孝らは、格式はあっても武力と財力がない。この大作戦を成功させるために、戦国武将の誰かの武力や財力に頼らなければならない。大覚寺義俊は、以前から親交のあった朝倉家に懇願した。足利家への忠節の深かった朝倉義景は応諾したが、合戦と違って義景自らが動くことはできない。手足となって働ける者が必要であり、その仕事(救出、保護)を、称念寺門前にいた明智光秀に任せたのである。そこから天才、光秀の能力が遺憾なく発揮され、人生のターニング・ポイントになり、越前で幸運を掴んだのである。
覚慶(後の足利義秋、更に改名 義昭)の救出から保護、上洛までの経緯
(光秀は、奈良、甲賀、近江、若狭、敦賀、一乗谷、岐阜、京等を東奔西走)
1566年7月 覚慶は奈良を脱出して、甲賀の和田城に入る。
8月 近江の矢島に移る。 1566年4月 覚慶は還俗して義秋と名乗る。
8月 三好側の攻勢で、覚慶は若狭へ逃れ、武田氏を頼る。
9月 敦賀の金ヶ崎城に入り、1年2ヶ月滞在する。 1567年11月 義秋は一乗谷の御所に入る。一乗谷動座(約9ヶ月) (義秋は保護されて、翌年7月まで滞在する。) 1568年2月 三好勢側が擁立していた足利義栄が第14代将軍となる。
3月 義秋は一乗谷南陽寺で糸桜観賞 終日遊宴
4月 義秋は元服し、義昭と改名する。
6月 朝倉義景の嫡男阿君丸(くまぎみまる)が毒殺される。
7月 朝倉義景は義昭との上洛を拒否、義昭と光秀は一乗谷を発ち、信長の待つ岐阜城へ ※上洛とは、京の朝廷(天皇)に願い出ること、京に上ること。 義景が共に上洛を拒否した理由 ○義景は反織田派で、織田との上洛を拒否した。 ○朝倉家は比叡山延暦寺の檀家総代であった。(信長は比叡山延暦寺を敵対していた) ○当時朝倉氏は一向一揆勢対処で、留守はできなかった。 ○嫡男(阿君丸)が殺されたことで、内紛を恐れた。
1568年9月 光秀は信長と上洛し、三好・松永勢を排除する。
10月 義昭は悲願の第15代足利将軍になる。 光秀は、信長の家臣として公的史料に登場する。
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