丸岡文化人・施設等
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丸岡文化人その1

(1)平地城を築く 柴田勝豊

(2)丸岡初代藩主 本多成重

(3)平章館創設 有馬誉純

(4)俳句の名人 蓑笠庵梨一

(5)幕末の藩医 合屋文仲

(6)平章館の学者 宮本嶺南

(7)金比羅山   福島恵喜子

(8)新道開発   長田四郎作

(9)70世貫首 大森禅戒

(10)天才作曲家 今川 節

(11)画家 長田雲堂、山田介堂

(12)魯迅の恩師 藤野厳九郎

(13)創る賞    内田 忠

(14)教育者    林田直永

(15)教育者    田中喜由

(16)鉄道創設者 小原宗太郎

(17)鉱山史の開拓者 小葉田淳

(18)芥川賞作家 開高 健

(19)震災復興の翁 友影賢世

(20)名誉町民第1号 中野秀孝

(21)日展画家 津田玉之栄

(22)鳴鹿堰堤築く 酒井利雄

(23)名誉町民第3号 池田松次郎

(24)称念寺居住10年間 光秀公

丸岡文化人その2

(1)地域開拓 振媛と継体天皇

(2)豊原寺開く 泰澄大師

(3)開祖道元に次ぐ 常済大師

(4)福井県農業の父 山田 斂

(5)地域農政振興 多田清志

(6)地域農山村振興坪川貞純

(7)プロレタリア文学 中野重治

(8)プロレタリア文学 中野鈴子

(9)蛇笏賞を受賞 皆吉爽雨

(10)竹田新道開発渡辺茂十郎

(11)福井銀行創設小林李太郎

(12)コシヒカリの父 石墨慶一郎

@霞の郷温泉

Aたけくらべ温泉

B県グリーンセンター

C日東シンコースタジアム

D丸岡フィットネスクラブ

E丸岡古城ドーム

Fたかむく古城ホール

G手紙の舘

H丸岡歴史民俗資料館

I豊原三千坊史料館

J城小屋「マルコ」

K大阪中座破風

L丸岡体育館

M丸岡図書館

N坂井市龍翔博物棺

 

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」 特集

 mituhide   越前での光秀公の全貌

光秀の越前での生活 
 1556年頃、美濃から称念寺に逃れ、門前で10年間余り浪人生活、 1565年5月以後から、覚慶(後の第15代将軍足利義昭)の救出と保護し、次期将軍擁立のために、朝倉義景と、更に織田信長の支援を受けるために、奔走していた。そして1568年7月、義景の支援を受けられず、義景をあきらめて越前を去り、岐阜の信長のもとへ 


  明智家は元々美濃の斉藤道三の家臣であった。1556年、道三の息子(義龍)時代になると、明智家は斉藤家に滅ぼされ、光秀は逃亡の身となる。越前の称念寺に逃れた。 (穴馬村に逃亡し潜伏して後、1558年称念寺へという説、最初京都へ逃れ、1558年頃、美濃から称念寺に逃れた説もあり) 光秀は妻子と10年間称念寺門前で生活していた。

   称念寺に逃れた理由

○明智家は清和源氏一族でもあり、同じ源氏一族の新田義貞公の菩提所(墓所)のある称念寺に逃れてきた。  
○当時、称念寺はアジールという駆け込み寺であった。(天皇家や将軍家の祈願所、勅願寺であり暴力禁止の寺であった)
○明智家は美濃の土岐氏の一族で、土岐氏と越前朝倉家は婚姻関係があり、いずれ、一乗谷朝倉氏に仕えようとしていた。
○光秀の母お牧の腰元の竹川(若狭の武田義統の妹説あり)の縁で若狭で、光秀と称念寺の薗阿上人と会ったことがあった。
 

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2020年のNHK-TV大河ドラマ放映時に称念寺境内に設置されていた「光秀・煕子」記念撮影用看板

 

1556年  仕えていた齋藤氏(齋藤義龍)に敗れて、逃亡の身となり、美濃から越前に逃れて来る。
 (光秀と妻の煕子、お供は従兄弟の三宅弥平次で、油坂峠を越えて)

○一乗谷城下を見学する。称念寺を訪ねる。門前の空き家に住むようになる。
○称念寺の光明院(現在の商事会社・銀行)で働く。
○山代温泉によく行き、医学や薬学を学ぶ。修業に大坂堺や毛利家へ出向く。
○舟寄の黒坂備中守景久(朝倉一族)の目に留まり家臣となる。朝倉義景と会う。
○1563年お玉(娘後の細川ガラシャ)が誕生する。
○門前で寺子屋を開き、住民の教育や医療に携わる。

556年〜1565年(約10年間)戦国武将としての教養を習得する。称念寺門前で生活:称念寺の遊行僧から、全国の様々な情報を学ぶ。遊行の従軍僧から医学薬学の知識を習得、称念寺光明院で経営学、金融学、交渉術を学ぶ。時宗を通して、宗教や人間愛、倫理を学ぶ。武者修業で、鉄砲術・武術・戦略術を学ぶ。和歌連歌等、文化的教養を学ぶ。

 一乗谷朝倉氏に仕えようと仕官を願い出ていた頃 1565年 5月19日に
              一大事件勃発一

   第13代将軍足利義輝が三好義継・松永久秀らに襲撃され殺される。

 当時、義輝の弟(覚慶:かくけい)は、奈良の興福寺一乗院門跡(住職)をしていた。三好・松永等に監禁された覚慶を救出し保護する場所を探していた。覚慶の母方の叔父であった大覚寺義俊、細川藤孝らは、盟友である光秀に相談。光秀はその救出作戦に参加することになる。

  (覚慶を救出し保護し、次の足利将軍に擁立する作戦)

大覚寺義俊、細川藤孝らは、格式はあっても武力と財力がない。この大作戦を成功させるために、戦国武将の誰かの武力や財力に頼らなければならない。大覚寺義俊は、以前から親交のあった朝倉家に懇願した。足利家への忠節の深かった朝倉義景は応諾したが、合戦と違って義景自らが動くことはできない。手足となって働ける者が必要であり、その仕事(救出、保護)を、称念寺門前にいた明智光秀に任せたのである。そこから天才、光秀の能力が遺憾なく発揮され、人生のターニング・ポイントになり、越前で幸運を掴んだのである。 

 覚慶(後の足利義秋、更に改名 義昭)の救出から保護、上洛までの経緯

    (光秀は、奈良、甲賀、近江、若狭、敦賀、一乗谷、岐阜、京等を東奔西走)

1566年7月 覚慶は奈良を脱出して、甲賀の和田城に入る。
      8月 近江の矢島に移る。
1566年4月 覚慶は還俗して義秋と名乗る。
      8月 三好側の攻勢で、覚慶は若狭へ逃れ、武田氏を頼る。
      9月 敦賀の金ヶ崎城に入り、1年2ヶ月滞在する。
1567年11月 義秋は一乗谷の御所に入る。一乗谷動座(約9ヶ月)
           (義秋は保護されて、翌年7月まで滞在する。)
1568年2月 三好勢側が擁立していた足利義栄が第14代将軍となる。
      3月  義秋は一乗谷南陽寺で糸桜観賞 終日遊宴
      4月  義秋は元服し、義昭と改名する。
      6月  朝倉義景の嫡男阿君丸(くまぎみまる)が毒殺される。
      7月  朝倉義景は義昭との上洛を拒否、義昭と光秀は一乗谷を発ち、信長の待つ岐阜城へ
                ※上洛とは、京の朝廷(天皇)に願い出ること、京に上ること。
     
義景が共に上洛を拒否した理由
   ○義景は反織田派で、織田との上洛を拒否した。
   ○朝倉家は比叡山延暦寺の檀家総代であった。(信長は比叡山延暦寺を敵対していた)
   ○当時朝倉氏は一向一揆勢対処で、留守はできなかった。
   ○嫡男(阿君丸)が殺されたことで、内紛を恐れた。

1568年9月 光秀は信長と上洛し、三好・松永勢を排除する。          
          10月 義昭は悲願の第15代足利将軍になる。
        光秀は、信長の家臣として公的史料に登場する。

1565年〜1568年
  
光秀の役目
 (義昭の救出と保護、そして次期将軍擁立のための、朝倉氏との交渉役)
 (朝倉氏との交渉時は東大味〈現 明智神社辺り〉に借り住まいしたようである。妻子は称念寺門前で生活していたのでは?)

光秀の越前居住10余年間(1556年〜1568年)
 美濃から越前に逃れてきて長崎にある時宗の称念寺でおもてなしをうけ、妻子とともに生活していたことについて、今まで正確な史料がなかった。光秀に関する多くの小説や歴史書は、信憑性の薄い『明智軍記』『細川家記』等を元にして、書かれていた。そのため、越前について書かれている箇所を調べてみると、年代や時期の誤り、辻棲の合わないところが多く見られる。
 著名な歴史学者の高柳光寿著の「明智光秀」は、1568年頃から記述をスタートさせている。ところが、近年遊行上人31代目同念(どうねん)上人が書いた※『遊行31祖京畿御修行記』の発見により、信長に仕える以前、越前に10余年間居住していたことが証明され、県内にある伝承や史跡、ゆかりの地等が史実となって蘇ってきた。

  (以上 「光秀さん、越前に来てよかったね。」著者 栗波昭文氏 より引用)

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平山城を築く  柴田勝豊
15761582

初代丸岡藩主 本多成重
16121647

  柴田勝豊の略歴
●柴田勝家の甥1556年 (1歳)
尾張国織田氏の家臣、柴田勝家の甥として生まれる。
叔父柴田勝家は織田信長の筆頭家老となる。
その後、柴田勝家の養子に。
●越前丸岡城 1575年 (20歳)叔父柴田勝家が越前国(49万石)の支配を任せられ北ノ庄城主となると、その内丸岡4万5千石を任され丸岡城を築城し城主になる。
●1581年(26歳)京都での馬揃えに、叔父柴田勝家とともに参加。
●1582年(27歳) 叔父柴田勝家、越前国、加賀国、能登国、越中国を支配下に入れ、越後国の上杉景勝に迫る。
●信長の死・秀吉との対立 本能寺の変。清洲会議の結果、近江国長浜城に入城。羽柴(豊臣)秀吉の誘降を受け、寝返る。
●1583年(28歳)賤ヶ岳の戦の決戦を前に、病死。

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ img1.jpg

 織田信長が越前一向一揆を平定した後、柴田勝家を越前の守護職として、一揆の根絶に当たらせた。甥の柴田勝豊を豊原に派遣し、守備させたが、国内統一のためには城郭の位置を政治経済上、交通の便からも平地に移し、農工生産、商業を一段と発展させる事と考えて天正4年(1576)丸岡の丘(現在の地)に築いた。
 当時としては革新的な築城であった。このことが城下町の発達につながった。山地築城から平地築城に変わった最初の城が丸岡城で、その天守閣は日本最古の様式となっている。

    お仙」とは成重の幼名です。父の作左エ門尉重次が戦場から家族に送った手紙文です。この名文は一筆啓上賞の由来となっている。 父は徳川家康に仕えた譜代第一人者で、成重も父に従っていた。成重は慶長17年(1612)に福井藩の補佐のために、丸岡城主になり、福井藩政を支えていた。
 大阪の陣に参戦して、活躍する。特に夏の陣では、真田幸村の軍を破り、大阪城討ち入り一番乗りを果たす功績をあげて、4万6千300石の初代丸岡藩主となった。 

丸岡藩の文教先駆者 有馬誉純 なすみ しげすみ (1772〜1830)

子爵有馬家蔵幅 誉純肖像画より

 
篠岡 高岳寺の藩主のお墓
  (向かって最も右が誉純公の墓)

   丸岡藩主の中で最も才知にすぐれた藩主と言えば、14代の有馬誉純と言われている。26歳で病死した父 允純(ますずみ)の後 4歳で藩主となり、23歳頃から、藩の財政の立て直しや教育の大切さを説き、中央より学者や先生を呼び寄せ、文化元年(1804年)には藩校「平章館」を開設した。その時の生徒数は約150名でした。誉純公は藩士子弟の教育ばかりでなく、身分の低い者や平民にも自由に私塾や寺子屋で学ぶことを奨励し、平章館を中心に文化と教育の振興に貢献された。
 また、23歳ごろから江戸幕府の要職にも就き、特に文化9年44歳の時には江戸幕府の若年寄にまで歴任し、優れた才能を発揮した。

 
 

藩  名

藩 校 名

創立年代

 

丸岡藩の私塾名

塾主名

小浜藩

順造館

1774年

 

蓑笠庵

一柞梨一

丸岡藩

平章館

1804年

 

長松館

有馬右京

鯖江藩

進徳館

1814年

 

太乙堂

小野玄信

福井藩

正義堂

1819年

 

朴斎塾

藤田天洋

福井藩

明道館

1855年

 

龍陽館

荒木一助

勝山藩

成器堂

1843年

 

日新塾

有馬崚太郎

大野藩

明倫館

1843年

 

 

 

大野藩

蘭学館

1859年

 

 

 

平章館の生徒数

   年代

1804年

1820年

1870年

1871年

生徒数

約150名

 約200名

約250名

約300名

 

                         さりゅうあん   りいち
          俳句の名人  蓑笠庵梨一(1714〜1783) (高橋梨一)

 

昭和58年に建立された蓑笠庵梨一顕彰句碑(台雲寺)

 台雲寺(石城戸4-13)の解説文

 正徳3年(1714)、梨一は関久和の二男として生まれました。小さいときから学問に励み、古典や算数が得意でした。その中でも、俳句をつくるのが得意でした。梨一が50歳のとき、丸岡に家を移し、52歳で大和めぐりに出て、句集「大和めぐり」を出しました。この後、石城戸に住む梨一は、藩士に学問を教えるようになりました。梨一の学識と人格の高さを知っている人が集まり、漢学習字や俳句を学ぶようになり、この塾を蓑笠庵と呼びました。
 丸岡藩の教育が盛んになり、梨一の学問への研究心も高まっていきました。梨一が松尾芭蕉の研究に生涯を捧げた集大成が「奥細道菅菰抄」という書物です。
 天明3年(1783)、梨一は病にたおれました。4月18日に70歳で亡くなったのです。弟子たちの手によって台雲寺の墓地に葬られ、梨一をたたえた碑文を刻んだお墓が建てられました。
 丸岡俳壇蓑笠社は代々の師匠を中心にし、梨一の俳句のつくり方を受け継いでいきました。今日でも丸岡俳句会は毎年4月の梨一が亡くなった日に、台雲寺で句会を開いています。また、丸岡町では「俳句のあるまちづくり事業」として、「梨一賞」をつくり、表彰しています。

 

                         
                                                   こんぴらさん          ふくしま  えきこ
木綿産業の開拓者 田屋の金比羅山を拓く  福島恵喜子
                             
( ?   〜1849)

 

田屋の金比羅神社 

 豊原への道路脇の史蹟看板(田屋地区)

丸岡三歌仙の一人(他に 宮川祐清、浅海澳満) 丸岡藩の御用人 福島長太夫美衛の母  

 早くから向学心が旺盛で、京都の加茂神社で国学と和歌を学び、 平章館の和歌教師を長くしていた。丸岡の産業の振興にも力を注いで、農家に綿の栽培を推奨し、これを木綿糸「丸岡木綿」「白木綿」として、他地方へ出荷する紡績織物産業の発達につながった。その間に、仏教信仰心が厚く、四国に4回に渡り八十八カ所巡りをしている。そして、丸岡の人々の福祉にも献身的で、丸岡にも四国新八十八カ所の霊場を開くことを考え、田屋の東方の山を購入し、山頂広場に金比羅社と大師堂(1835年頃完成)を建てて、丸岡領内鎮護の神として、祭った。山の中腹まで約400段の石段を造り、この山を巡れば四国巡礼と同様の功徳が得られると信じられ、数多くの参詣者で賑わった。それ以降、丸岡には大きな災害もなかったので、人々はこの山を護城山と命名し、霊場としてたいへん栄えた。これが今日では「田屋の金比羅さん」と呼ばれています。遠足や植物採取の場所となっています。
 恵喜子は国学者として、また、郷土の産業「織物、機業」を切り開いた偉大な女性です。墓は台雲寺にあります。                 

 幕末の藩医  合屋文仲ごうや  ぶんちゅう
(1832〜1905)の業績

平章館の学者 宮本嶺南

   石城戸の合屋家に生まれ、30歳で父の後を継ぎ、丸岡藩医となる。発明した「イバラキ膏薬」は当時の丸岡名産として全国に名を知られ、薬を求めて患者が後を絶たなかった。その後坂井郡東部医務取締、衛生会頭となる。文仲は少年期より漢学にも秀でていて、自宅に成美堂という塾を開き、多くの青年たちの指導に当たっていた。また、極めて正義感がつよく、社会奉仕の事業に対して心から尊敬し、功労のあった人の偉業を讃え、多くの碑文を書いている。(竹田川平岩堀割工事の浅海渡の功労碑文、長田四郎作の新道功労碑文、竹田新道開発の渡辺茂十郎功績碑文等)

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    文化元年(1804年)の平章館の開校に備えて、有馬誉純公が江戸より招いた儒学者で、その名前は宮本与八郎応行という。 丸岡藩の藩学、宋学は先生の教えで、一変し、先進的な丸岡の教育が近辺に伝わり、平章館の生徒が年々増加していった。自らも嶺南塾を設けて、その塾主として、多くの門下生を育てた。文化10年(1814年)9月4日 66歳で亡くなった。現在、白道寺に先生のお墓があります。

 

                           
                                                                        ながた うんどう      やまだ かいどう

北陸絵画界の巨匠(北陸三堂)の長田雲堂、山田介堂 (丸岡城公園) 

長田雲堂は幕末に谷町に生まれ、小さい時から絵が得意でした。京都や長崎で南画(水墨画)を習った後、明治3年頃中国に渡り、中国南画の神髄を極めた。帰国後、福井や丸岡で多くの作品を世に出して活躍し、大正12年 74歳で亡くなった。
  山田介堂は神明神社の東隣で生まれた。京都で南画を修行し、関西方面で実力をつけていき、日本南画協会を結成した。全国的な画家となって、多く作品を残している。大正13年に56歳で亡くなった。
 内海吉堂は敦賀出身の南画家で、これらの3人を「北陸三堂」として、その功績を讃えている。


山田介堂の山水画

 

       かんしゅ おおもりぜんかい     
70世永平寺貫首 大森禅戒 18711947
 
 禅戒は明治4年(1871)、丸岡猪爪の八木家の三男として生まれた。台雲寺で小僧、その後、出家し、明治18年、禅戒の名をもらって仏道修行に専念することになった。東京の曹洞宗大学に進み、修行に励むこと7カ年、抜群の成績で卒業した。まだ29歳で母校の曹洞宗大学教授となった。 

 米国、英国、ドイツの大学で7年間、主として宗教制度と比較宗教学および宗教哲学を専攻し、 インドやヨーロッパ、中国、満韓、における社会事業を調査した。  昭和4年にも曹洞宗管長代理として、ハワイから北米方面で慰問布教するなど禅戒の海外生活10カ年の東奔西走し、曹洞宗における第一人者となった。

 昭和9年には駒沢大学の学長に迎えられた。これより4カ年にわたり建設中の駒沢大学の整備拡充のために心血を注いだ。 昭和15年9月、禅戒は推されて曹洞宗管長に就任し、翌16年7月には曹洞宗の宗制に従って大本山永平寺第70世の貫首になった。ときに71歳であった。曹洞宗最高の栄誉をになったのである。
  ところが、入山式が終わると直ちに引退を声明して、一切の世事から遠ざかって、昭和22年2月4日、脳出血のため77歳でなくなった。

 

                             
                               ながた  しろうさく
新道(丸岡ー加賀線)開発に功績 長田四郎作

  長田四郎作  (1825〜1899)

 

 

 

 現在 丸岡城公園に建てられている新道功労碑

 福井震災前までは新道地区に建っていた。
(碑文は合屋文仲の書)

   江戸時代の北陸道は、森田から長崎、舟寄、坂井町、金津、吉崎へ そして加賀市に至る旧北陸道しかありませんでした。それは丸岡にとっては不便なことが多く、明治6年頃、丸岡から、加賀大聖寺に至る新しい道の建設の動きが起こりました。丸岡藩や国神神社、谷町の長田四郎作氏(子孫は福井震災までは写真店を営んでいた。)をはじめとする一般人が自分の財産をなげうって、工事費を出し、3ヶ年をかけて工事をしました。今も残る新道の地名はこの丸岡口から新しい道が工事されたことからです。福井地震前までは乾町に新道功労碑が建っていましたが地震で壊れて、現在は丸岡城公園に新しく石碑が建っています。

 

                                      
                                         いまがわ  せつ

郷土の生んだ 天才作曲家 今川 節

 

今川節(1908〜1934)

 緑幼稚園園庭の銅像と石碑

 今川は明治41年8月に巽町に生まれました。父が早く亡くなり母の実家で細々と生活をしていました。平章校で勉強し、音楽が特に好きだったようです。谷町の森田銀行で働き始めたのですが、好きな音楽のために一人で勉強を続けていました。しばらくして、「赤い鳥」という雑誌で作曲の勉強を始めました。
 みなさんがよく知っている「ちょうちょ」という曲は今川のはじめて有名になった曲です。「雪の降る夜はたのしいペチカ」これも今川の代表作品なのです。
 昭和3年8月、文部省は唱歌楽譜を全国から募集しました。何百点も集まった作品の中から、今川はみごとに2等入選となり新聞記事によって知人や郷里の人々をびっくりさせました。  
 その後、今川は丸岡ローレル楽団を作り、毎晩練習を続けていました。今川は秋に入ると、コンクールに備えて「四季」の作曲に取りかかっていました。そして、見事作曲の部で1位となったのです。
 このように、将来を期待された今川でしたが、このころから肺の病気が悪化してきたのです。1ヶ月たったころ、血を吐き倒れてしまいました。勤めてきた銀行もやめねばならなくなってしまいました。そして12月、ローレル楽団員らにみとられながら静かに26年の生涯をとじました。

                          
                          ふじの  げんくろう

平章小学校の卒業生 藤野厳九郎

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藤野厳九郎(1874〜1945) 

福井市足羽山の藤野先生顕彰碑

 明治7年(1874年)  坂井郡下番村(現 あわら市下番)藤野家に誕生し、幼少時に大関村大味(現 坂井町大味)の大石家へ養子に出る。
 明治16年10月  坂井郡第14番小学区公立平章小学校に入学。  明治23年4月10日  平章小学校高等科卒業。 その後、福井中学校、 愛知県立愛知医学校と進み、 明治29年12月愛知医学校卒業。 大石から元の藤野に戻す。 明治30年3月医術開業免状授与、愛知医学校で教師となる。 
 その後、仙台医学専門学校で教授。  明治37年9月から明治39年3月まで  仙台医学専門学校(現 東北大医学部)で中国人留学生(周樹人 後の魯迅=ろじん)の恩師となる。
   魯迅は帰国後、中国を代表する世界的な文豪となった。彼の作品の中でも、恩師の藤野先生との出会いと、人種を越えた藤野先生の異国人に対する温かい思いやりの心を綴った「藤野先生」は、現在の 小中学校の「道徳の時間」の教科書や高校の国語の教科書の中で紹介されています。

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留学時代の魯迅(1881〜1936)

平章小学校の卒業証書

 周樹人が仙台を去る時に、藤野先生は自分の写真を手渡した。裏には毛筆で「惜別 藤野」と書かれていた。その写真はその後、魯迅の家に掲げられた。「わたしの恩師の中で、藤野先生は最もわたしを感激させ、励ましてくれた一人なのである。私に対する教えは、小にして言えば中国のためであり、中国に新しい医学が興ることを希望してである。大にして言えば、学術のためであった。」 資料の提供は元芦原町教育委員会

                         うちだ  ただし
 創る賞の  内田 忠

                           はやした  なおえい 
丸岡の女子教育の 林田直永

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内田忠(1905〜1944)平章小学校の前庭にある顕彰碑

林田直永(1879-1973) 丸岡城公園の顕彰碑

   明治38年(1905)、丸岡町霞1丁目で機業を営む内田宗七の長男として生まれました。家業のことを考え商業、経済を学んだのですが、忠は少年時代から文学的才能がとても優れていました。末弟の八郎が亡くなったとき、作品「小さな幸福」をつくりました。このころから自由律俳句というものを学びました。
 昭和2年春、東京に行き、活躍が始まりました。ペンネームは内田創平といいました。。
 東京では内田の「詩」をつくる活動が広がり、自由律俳句というもので自由詩人として活躍していました。
 その後、いろいろな詩集を出し活躍しました。しかし、戦争に召集されそこで結核にかかってしまいました。失明同様になってしまい、詩をつくることをやめなくてはなりませんでした。そして昭和19年5月 40歳で亡くなりました。

 「内田忠全詩集」が丸岡町文化協議会から出版されたり、丸岡町の文化向上のために「丸岡五徳会」が小中学生の詩を対象とした「創る賞」をつくったりし、今も内田忠の詩とその心は愛し守られています。 

   明治12年 金津に生まれ 福井師範学校卒業後教師になり 林田家の婿養子に縁組 郡内の学校長、第12代 平章小学校校長(明治42年1月〜明治42年8月)の外、坂井郡や福井県の視学官 知事官房文書課長等、福井県の学校教育の指導的要職に就かれておられた。特に県内の農業学校の設立やその校長として尽力された後、第5代丸岡高等女学校校長(昭和8年8月〜昭和21年3月)として、長く、丸岡の女子教育に専念された。今日の丸岡高等学校誕生までの礎を築いて頂きました。昭和48年12月94歳で亡くなりました。
 丸岡城公園にはその業績から顕彰碑が建てられています。


〈上〉当時の丸岡高等女学校校舎

〈右〉平章小学校の前庭に丸岡女学校跡を示す石碑

教育者 田中喜由 (1872 〜1937)

丸岡町立図書館の敷地内にある顕彰碑

 丸岡町北田町士族吉竹勇吉の次男として生まれ、その後の田中家の養子となりました。学問が好きであった彼は、学校の先生になりたかったようです。坂井郡新郷小学校に働くことになりましたが、さらに中等学校教員を志望して東京物理学校に入りました。
 大野中学校勤務を経て、その後、丸岡町平章小学校校長(第13代 明治42年8月31日〜大正13年3月31日)に選ばれたのです。明治42年 皇太子殿下(後の大正天皇)が丸岡へお立ち寄りになることになり、その案内役をつとめられました。
 田中は男子だけでなく女子の教育にも尽力されました。丸岡高等女学校の校長を2期(初代 大正2年3月〜大正14年3月、3代 昭和4年5月〜昭和7年2月)、また丸岡町長(昭和6年10月20日〜昭和12年3月16日)にも選ばれ、上水道の工事を成功させました。『丸岡城』の国宝指定に力を尽くし、丸岡城を修理し、城を昔のような姿に再現させました。

 丸岡軽便鉄道の創設者 小原宗太郎

 歴史学一筋に生きた小葉田 淳

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小原宗太郎
(1873〜1955)


開設当時の本丸岡駅構内

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小葉田 淳(1905〜2001)丸岡図書館の小葉田文庫

   石城戸の旧家で米問屋をいとなむ小原家の長男として生まれた宗太郎は道路について人一倍の関心をもっていました。40歳の時、田町と西瓜屋で道の交通量を調査しました。そこで交通量の多さが分かり、交通機関を整備することは、街の発展に繋がると確信したのです。そこで汽車を開通ことを考え、丸岡から一本田、舟寄を通って新庄の停車場に至る4.2qに線路をつくることを考えたのです。これが丸岡鉄道株式会社の誕生でした。小原氏は線路をしくための土地を買い、難題を解決し、工事が始まりました。そして大正3年(1914)6月に丸岡軽便鉄道が開通しました。駅の名前は北陸本線に「丸岡駅」 (坂井町新庄)があったため、本丸岡駅となりました。
 日本で2番目のドイツ製の蒸気機関車を走らせ『軽便鉄道』と呼ばれました。『軽便』は活躍し、丸岡町の発展につながったのです。昭和5年5月には丸岡軽便が電化され、電車が走るようになりました。本丸岡駅は今でも丸岡町の玄関となっています。 

 明治38年(1905年)  丸岡町本町3丁目に生まれる。京都帝国大学文学部卒業後 台湾の大学、京都大学、京都女子大学の先生を長年なさり、だれも手がけていなかった鉱山学、外交貿易等を研究して、今日の歴史学界に多くの研究者を育てて、平成8年には文化功労者に選ばれました。
 丸岡図書館には、これまでの先生の著書をはじめ、約18,000冊の書籍が町へ寄贈されています。平成12年5月に丸岡の6人目の名誉町民となっています。平成13年8月に96年間という歴史学一筋に生きた先生です。 

 芥川賞を受賞した行動作家   開高 健

 震災復興に燃えた翁 友影賢世

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開高健(1930〜1989) 開高健文学顕彰碑(一本田福所)

友影賢世(1870〜1970)碑(丸岡城内公園)

   開高健の祖父母が丸岡町一本田福所の出身で、丸岡町ゆかりの文学者として、ふるさと一本田福所に開高健文学顕彰会ができました。そして、文学顕彰碑が建てられました。
 開高健は、28歳の時『裸の王様』で、第38回芥川賞を受賞しました。また、世界各地を釣り紀行した紀行文が、菊池寛賞を受賞するなど、今までの日本の文学のわくを超えた行動派の作家でした。丸岡成人大学の講師として、丸岡町で演説をしたこともあります。 『珠玉』を最後に、平成元年12月9日にこの世を去りました。人間と社会のありかたに目をむけ続けた、エネルギッシュな作家でした。

   昭和23年6月の福井大地震で一瞬にして崩壊してしまった丸岡町の復興のため、友影町長はすでに79歳の高齢にもかかわらず、丸岡町を立て直すことを決意しました。都市計画事業と丸岡城の復元を考え、以来寝食を忘れて努力し、たくさんの困難を克服していきました。募金を集めるために、遠くは北海道まで行くこともありました。そして、今のような丸岡町に修復されました。
 時に翁85歳。その努力に対し、重要文化財保護委員会の推薦を受け皇室からは鳩杖を受けたました。また、亡くなった年には2人目となる名誉町民の称号が与えられました。

   初代町長は名誉町民第一号 
中 野 秀 孝  (1894〜1972)

鳴鹿大堰堤事業に尽力
酒井利雄 (1891〜1969)

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   昭和39年4月より8年間、丸岡町長として町民の気持ちを大切にし財政の立て直しに力を注ぎました。県議会議員選挙にも当選し、地方の政治のあり方にも力を注ぎました。丸岡信用金庫理事長の職につき、丸岡町の財政にも影響力がありました。
 その後、一本田福所で医院を開業しました。その後、本町に移り、病院長として55年間も活躍したのです。これらの活躍に対して、名誉町民第1号に推薦されましたが、晴れの授章式を前に急に亡くなってしまった。いつでも庶民の味方で、弱いものを守り続けたことは名誉町民に相応しい方でした。 

   鳴鹿の楽間の酒井家の長男に生まれました、明治38年平章小学校高等科卒業と同時に上京。18歳のとき帰郷 父の土建業を手伝った。
 大正6年28歳のとき株式会社飛島組に入社し業界活躍の基礎を定めた。13年には飛島組取締役として、関東大震災直後の帝都復旧事業や坂井郡8千町歩の用水取入口であった鳴鹿大堰所の改良工事を計画したが、戦争で中断、戦後、昭和22年国営九頭竜川沿岸農業水利改良事業を5ヶ年計画で施工することにこぎつけた。24年より本格的に着手。そして28年に待望の通水となり、翌年に竣工した。
 さらに、昭和4年には永平寺線の全通による南北縦貫軌道を完成させた。また、昭和17年には衆議院議員、28年には参議院議員として中央で活躍した。

                                                              つだ    たまのえ
丸岡近代洋画界の草分け 津田玉之栄
(1905〜1988)

丸岡金融貢献 名誉町民3号
        
池 田 松 次 郎 (1907〜1995)

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作品の「鶏舎」は現在、平章小学校の玄関に掲げてあります。

   丸岡信用金庫の専務、理事長を37年の永きにわたり務められ、経営規模の拡充を図るとともに、中小企業に対する融資、経営指導等に尽力し、丸岡町の中小企業の発展に多大の貢献をされた。
 また、丸岡町商工会の副会長を
8年務められ、商工業の振興に情熱を傾注し、さらに旧丸岡町議会議員を28年、丸岡観光協会会長10年等歴任され、産業の振興および町勢の発展に貢献された。
 昭和
55年秋、金融業功労として勲五等瑞宝章を受章されている。

    明治38年丸岡町筑後清水に生まれ、福井師範学校卒業後、本町の津田家に婿養子に入りました。昭和35年まで坂井郡内の学校で教職に就き、美術指導を担当されておられました。鳴鹿小学校校長、そして、加戸小学校校長退職後も創作活動を続け、昭和39年に「鶏舎」が第7回の日展に初入選を果たしました。そして、昭和49年までに6回にわたって日展に入選し、津田画風を確立させました。昭和63年に亡くなりました。 津田氏は丸岡の近代洋画界の巨匠となっています。

 

       振 媛(継体天皇の母)と 継 体 天 皇

 越の国の高向郷高田地区(現 丸岡町高田)の振媛は西暦450年頃 近江の国(滋賀県)高島宮の「彦主人王(ひこうしおう)」に嫁いだ。皇子「男大迹王(おほどのおう)」の誕生後、父が亡くなり、母は郷土の高田に戻って、皇子を養育する。皇子は福井平野、坂井平野の治水事業に功績する。後に継体天皇となられました。 西暦507年から531年の24年間在位 第26代継体天皇として、即位されました。継体天皇は聖徳太子の曾祖父に当たります。ちんみに 現 令和の天皇は第126代です。

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福井市足羽山の継体天皇石像

振媛想像図

越の大徳 泰澄大師  682767      白山豊原寺を創建

   麻生津三十八社に生まれ、14歳で越知山で修行に入る。
越知山から北東の方角に紫雲がたなびいている所をみつけ、大宝2年(702)に豊原寺を創建して、白山禅定の道を開く。
 これが白山信仰(山岳仏教)の元となり、各地に天台宗徒が増えていった。白山神社は泰澄大師を奉っている。
 文明3年(
1471)頃から、蓮如上人の平地、平民仏教である浄土真宗が普及し、次第に豊原寺の勢力は衰退をはじめた。それでも、文明11年(1479)頃には豊原寺の勢力は豊原千坊、小野千坊、吉谷千坊合わせて三千坊、更に前衛地の寺社等全6千坊あった。やがて、豊原寺は一向一揆の拠点となったため、織田信長によって天正3年(1575)に焼き払われてしまった。

福井県農民の父 一本田の山田 18651941 (やまだ おさむ)

  一本田の豪農山田家の長男として生まれる。父は第2代の県会議長(明治15年)、第1回貴族院議員(明治23年)であった。上京して明治法律学校に学び、卒業後は父の後を継いで政界に乗り出し農政の第一人者となる。
 日清戦後、政界を志し、明治30年県議会議員となった。明治33年、農事試験場を創設し、稲作栽培の試験を始め、新しい品種作りや土壌肥料の分析など近代農業の振興指針とした。同時に郡農事試験場を設置したり、自邸後方には果樹園(現在は伊東農園:更地)も開いた。
明治42年には興農信用組合を設立し、農村金融と貯蓄の奨励に努めた。翌43年、帝国農会の設置では創立委員、その後は評議員に選ばれ中央農政に活躍することになった。
 大正7年貴族院議員となり、不安定な米価問題に取り組んだ。農政懇談会に加え、衆議院の農政議員とも提携して大正11年の国会で農会法改正案を成立させたのは最大業績である。
 昭和10年に帝国農会副会長、次いで会長に推された。地方の農会長から選抜されたのは山田が最初であった。農政家としての実績が最高地位の農会長に登りつめたのである。

 

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山田  

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JA福井県坂井店前の顕彰碑

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開祖道元に次ぐ 常済大師 瑩山紹瑾1268〜?)

常済大師誕生地 山崎三ケ八字高杉

式内多禰神社の前に常済大師(瑩山国師降誕地)の石碑が建っている。

 瑩山紹瑾は文永5年(1268)10月8日に越前多禰村の観音堂(現在 高杉社跡)に生まれたと「和漢三才図会」や「洞谷記」に記されている。紹瑾は13才で永平寺2世弧雲懐奘(こううんえじょうじょう)のもとで仏門に入り、3世徹通義介につき修行をつんだ。その後、義介とともに加賀を回り大乗寺2世となった。そして、能登の総持寺や永光寺を開き、曹洞宗を広めた。曹洞宗では開祖道元とともに、高祖瑩山を太祖とあがめられている。
 

プロレタリア文学 中野重治 19021979

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丸岡図書館の顕彰碑

 明治35年、坂井郡高椋村一本田に生まれる。家族には、両親のほかに祖父母、兄と鈴子(プロレタリア作家)、はまを、美代子の3人の妹。 福井中学、金沢の第四高等学校文科、東京大学独逸文学科へと進み
 学生時代から文学雑誌に文学作品を出し、『驢馬』を創刊。『夜明け前のさよなら』『機関車』などの
プロレタリア詩を発表。急速に左翼運動、共産主義運動に関わっていく。東大を卒業後 翌昭和3年315事件で検挙される。その後、プロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍するが、作品が警察によって押収され発売禁止されたり、治安維持法違反容疑で逮捕されたりして、波乱の執筆人生を送る。戦後、一本田に帰ってからも執筆活動を続ける。昭和22年4月参議院選挙全国区で見事当選する。昭和32年『新潮』に彼の代表作の一つで、幼年時代を描いた自伝小説『梨の花』を連載する。地元の「竜北中学校校歌」を作詞、昭和39年3月には「丸岡中学校校歌の作詞。重治はふるさととそこに育つ子どもたちに限りない思いと希望を込めて作詞した。

   中野鈴子  プロレタリア詩人 (19061958)

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生家跡地の歌石碑

 坂井郡高椋村一本田に生まれた。
 鈴子は兄の重治とともに、小さいときから詩歌につよく心ひかれるものがあった。
16歳のとき室生犀星の詩を読み、はげしく心ゆすられた。上京し、翌年昭和5年に、思いきってひとりで犀星を訪ねており、その師事と交誼は彼女の死まで続いた。
見よう見真似で当時のプロレタリア文化運動の担い手の一人に成長していく。鈴子の活動でとくにめざましかったのは、雑誌『働く婦人』の編集と発行に精力的にとり組んだことである。昭和11年(
1936)福井の実家に帰郷する。詩も書き続けた。かつての仲間たちによって「新日本文学会」が創られた。昭和20年12月の創立と同時に福井県からただ一人参加している。昭和29年(1954)病苦と迫りくる老いと肉体の衰えもあり、鈴子の詩は、切なく厳しいものとなってくる。昭和30年には、詩集『花もわたしを知らない』が出版される。31年に2回目の手術をし、32年には3回目の手術を受けるため上京する。上京にあたって遺書を書き、『友よ、友だちよ』の詩を託した。術後、体力は徐々に回復するが、結局再び症状が悪化し、命取りとなる4回目の手術を321219日に受ける。手術の3時間前に最後の詩となる『竹の皮の飴包み』を書く。1230日衰弱著しく、翌3315日永眠。

 

 第1回蛇笏賞(だこつしよう)を受賞 皆吉爽雨   皆吉五郎 (爽雨の父)・皆吉大太郎 (爽雨)

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霞ヶ城公園内の父子石碑

 皆吉家は有馬家の家老職で,五郎は弘化2年(1845)に丸岡に生まれ,明治37年(1904)から41年まで丸岡町長を勤めています。大太郎は明治35年(1902),福井市宝永に生まれ,叔父の皆吉家に養子として入りました。平章小学校に学び,その後丸岡から三国へ,そして福井へと移っています。大正3年(1914)に福井中学に入学。俳諧に励み俳号も爽雨と命名されました。大正9年(1920)「ホトトギス」に初入選し,昭和7年(1932)にはホトトギス同人に推され,昭和13年(1938)には,第1句集『雪解(ゆきげ)』をはじめ『寒林』『雲坂』『緑蔭(りよくいん)』等を発表しています。戦後も創作活動を続け,昭和42年(1967)『三露(さんろ)』で第1回蛇笏賞(だこつしよう)を受賞して,「爽雨俳句の確立」となりました。

農政に貢献  多田 清志
名誉町民4号 (1909〜1986)
農山村開発 坪川 直純 
名誉町民5号 (1910〜1993)

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 高椋東・丸岡町農業協同組合長を30年の永きにわたり務められ、土地改良事業、、農業構造改善事業を強力に推進し、農業の近代化と経営の協業化等に多大の貢献をされた。 また、高椋森林組合長を34年、丸岡土地改良区合同事務所運営委員長を19年、県会議員を416年、県農協五連会長を210ヵ月にわたり歴任され、特に昭和48年に丸岡町農協を発足させ、その後丸岡町農業協同組合の大同合併に献身的な情熱を注がれ、昭和62年に合併を実現させるなど農政各般を通じ町勢の発展に貢献された。
 
昭和61年春、地方自治功労として勲五等瑞宝章を受章されている。
    竹田森林組合理事を22年務められ、山林の開発、造林等林業の振興に情熱を傾注するとともに、30年の永きにわたり竹田農業協同組合長として農山村の開発と生活改善に尽力された。
 また、竹田村長を
28年、県会議員を624年、さらに県会議長等を歴任され、その間県道丸岡山中線の開通をはじめ、大谷川を九頭竜川に切り落とす事業、国道8号線(バイパス)の竣工、高速道路のインターチェンジの誘致、国道364号線上久米田上竹田改良工事等に尽力し、町勢の発展に貢献された。
 
昭和4410月、藍綬褒章を受章され、また昭和63年春、勲三等瑞宝章を受章されている。
竹田新道開発      渡辺茂十郎
      
(1862〜1907)
銀行創立し政財界の基礎つくり
  
小林李太郎 18591911

img1.jpg川上集落にある功労碑 


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  当時、丸岡から竹田へは榎峠道−豊原線が最も利用されていた。山竹田の渡辺茂十郎は、竹田川沿いに平坦な道をつけたいと計画し、こうして明治30年事業費3千5百円をもって着工した。茂十郎36歳のときである。  川の両岸には岩肌で絶壁となっている個所が多く、予想外の難工事であった。人夫集めに苦労しながら工事を続け、寝食を忘れて奔走し、私財まで投げ出して、この道路一筋に心身を打ち込み、5年の歳月を費やして、ついに新道が開通した。

  李太郎(すえたろう)は安政6年(1859)『米屋』と呼ばれた舟寄の大地主、小林家の長男として生まれた。明治22年、初代高椋村村長に選ばれた。その後郡会議員に選出され、明治26年には県会議員となった。明治30年の北陸線開通により、絹織物が急速に発展した。地方産業の育成進展を図るため明治32年(1899)銀行営業認可を申請した。創立総会で李太郎は頭取に選出され、翌年(1900)、福井銀行の開業となった

コシヒカリの生みの親  石 墨 慶一郎 博 士
                                 
大正107月、丸岡町舟寄生まれ。農学博士

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   コシヒカリは、昭和19年に農林22号を母、農林1号を父として交配された組み合わせの中から、23年以降福井県農業試験場において、石墨慶一郎博士を中心に多大な努力と10有余年の歳月を費やして、選抜固定された水稲品種である。
  
昭和21年から福井県農業試験場(当時は農事試験場)に勤務。福井農事改良実験所長、育種課長、場長などを歴任し、昭和52年退職。昭和31年コシヒカリの品種育成に中心的な役割を果たした。平成1356日永眠。

  
石墨博士の功績を讃えて,平成25年(2013)5月6日  丸岡町舟寄の高椋西部公民館東側に「石墨博士顕彰銅像」が完成しました。

以上 写真、資料の参考引用文献等
    [丸岡町図書館HP偉人伝参考]、 丸岡町史(増補改訂版)
       「平章教育200年記念誌」 平章小学校
    {丸岡の歴史ガイド} 丸岡青年会議所発行、 
    {丸岡城とその周辺観光ガイド」 丸岡観光ボランティアガイド協会発行
         伊東尚一著『丸岡の人脈』 、「文協」 丸岡文協創立20周年記念誌ほか
       「たかむく玉手箱」 たかむくのまちづくり協議会発行

 

tatemono

以下の文化関係施設等が掲載されています。下線の名称orするとその施設解説へ飛びます。

@霞の郷温泉

Aたけくらべ温泉

B県グリーンセンター

C日東シンコースタジアム

D丸岡フィットネスクラブ

E丸岡古城ドーム

Fたかむく古城ホール

G手紙の舘

H丸岡歴史民俗資料館

I豊原三千坊史料館

J城小屋「マルコ」

K大阪中座破風

L丸岡体育館

M丸岡図書館

N坂井市龍翔博物棺

 

霞の郷温泉

平成12年6月に完成した町営の総合福祉保健センターにある温泉施設 カルシウム・ナトリウムー硫酸塩泉(弱アルカリ性の温泉)
適応症:神経痛・切り傷・やけど・筋肉痛等
入浴料 大人(中学生以上)500円、小人(小学生以下)200円 3歳未満 無料
丸岡町八ケ郷21−7
 рO776−68−5050

丸岡温泉たけくらべ

四季の風情豊かな竹田川の渓谷のほとりにあり、八角堂大浴場が特徴、泉質はカルシュウム硫酸塩泉で、リュウマチ、神経痛、冷え性等に効能がある。
100人が宿泊でき、宿泊者はゲートボール場、テニスコートの使用は無料、近くにキャンプ場、龍ヶ鼻ダム、千古の家等の観光地ある。
日帰り休憩 大人500円、小人250円
丸岡町山竹田88-8  0776-67-2333

県総合グリーンセンター

緑に関する総合施設 巨大な玉ねぎ型温室ドームには熱帯植物が繁り、大型都市緑化植物園は森林浴が楽しめる。広大な芝生公園をはじめとするグリーンパークにはウッドリーム、ウッドハウス、水上ステージ、ミニボート、大型遊具、林業試験場等があり、家族で楽しめる総合グリーン公園である。
 丸岡町楽間15 0776-67-0002

日東シンコ−スタジアム
(旧 丸岡スポーツランド)

平成4年3月に竣工した芝生の公式のサッカー場を含む多目的グラウンド
 丸岡町長崎6−69
 рO776−67−4040

丸岡フィットネスクラブ

プールとジムを備えた施設で、幼児から高齢者まで幅ひろい年代層のニーズに応える地域密接型の健康施設
丸岡町長崎6−69 0776-66-5665

 

越前丸岡古城ドーム

平成15年11月に竣工した多目的室内スポーツセンター 丸岡町内田16-1 
0776-68-0390
「越前丸岡古城ドーム」は、5人制サッカーのフットサル、テニス、ゲートボール及びレクリェーション的な小運動会などの開催も可能な多目的に利用できる施設です

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たかむく古城ホール

 坂井市役所丸岡支所4階(西里丸岡12-21-1)にある。平成23年よりオープン 丸岡町にある固定椅子255席、車椅子用席3席の511uの本格的大ホール 各種イベントに活用されています。
0776-68-0843 

 手紙の館(てがみのやかた)

 一筆啓上日本一短い手紙コンテストは平成5年から毎年開催されている。令和4年度で第30回を数えました。平成27年8月23日、霞町3-10-1に『手紙の舘』が完成し、過去の入賞作品の展示や特別展示かご覧いただけます。
0776-67-5100

 丸岡歴史民俗資料館

 昭和53年築城400年を記念して、城公園内(霞4-12)に開館しました。丸岡藩主の本多家や有馬家歴代の城主、城主ゆかりの゛武具・調度品・古文書等が展示されています。
0776-67-0001

 

 

豊原三千坊史料館

 平成23年に豊原寺の末裔の豊原春雄氏が豊原三千坊史料館を完成させました。かつての豊原寺の栄華を偲ぶことができます。予約制で見学できます。丸岡町田屋77-44 0776-66-6188

城小屋「マルコ」

 天守西側の広場の南側にある喫茶店「マルコ」には、約800冊の城に関する書籍や資料があり、自由に閲覧できます。全国の城のマニアが集う古民家をリノベーションしたユニークな憩いの場となっています。霞まち1-25 0776-65-9912

大阪中座破風

 平成12年に大阪中座より丸岡町に寄贈された破風の一部は磯部小学校の体育館に再現された。毎年秋には破風の下で、丸岡子ども歌舞伎が開催されている。
 丸岡町上安田7−24
(磯部小学校内)0776-66-2079

 丸岡体育館
 バスケットボール2面またはバレーボール面2面またはバトミントン面10面の他卓球場、スタジオ、会議室が利用できる。床面36m×43.2m観客席688席、フットサルやソフトバレーボール等にも利用されている。

利用時間am 9:00〜pm10:00休館日は12月29日〜1月3日 霞3-1-2電話0776-66-8920

丸岡図書館
 
 昭和58年に完成した町営図書館(現在は坂井市立丸岡図書館)郷土の偉人である、中野重治記念文庫、小葉田淳記念文庫、今川節の部屋もある。
開館時間am 9:30〜pm6:30休館日は月曜日(祝日は開館し翌日に休館)、12月29日〜1月4日 霞3-10-1電話0776-67-1500

坂井市龍翔博物棺
 
1981年三国町緑ケ丘に「みくに龍翔館」,:三国町営の歴史文化館として開館。2023年6月3日に坂井市龍翔博物棺として、リニューアルOPENし、展示内容は坂井市内全域を対象となりました。丸岡町に関する展示は古代の舟寄遺跡や丸岡藩に関する資料等の展示がされています。入館料:大人400円、団体30人以上で300円 高校生以下は無料、身障者200円 
休館日は毎週水曜日(祝日の場合は翌日、12月29日〜1月3日 
三国町緑ヶ丘4-2-1 0776-82-5666)

 

 

 

  

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