はじめに
 私たちの教育観や生徒観は、毎日のSHや授業や部活動などの全ての場面で、不断に問われていると思う。生徒との、なにげない会話の中においてさえも、問われているのだろうと思う。誰に問われているのか。お互いに、そのことを、いちいち自覚してはいないけれども、日常的に、不断に、生徒から問われているのだと思う。       

 ところが、特別指導会議(謹慎指導、退学勧告)や進級認定会議のような場面になると、そのことが、否応なしに、自分自身から問われることとなる。そして、私自身は、その都度、疑問や迷いを感じながら、『私の答』を考えてきた。学校が変わり、生徒が変わる度に、いつも悩ましく思いながら、揺れ動いてきた。対象になっている一人一人の生徒に照らして、『私の答』を考えてきた。だから、同じ問題について、あるときには『合』と言い、次には『否』と言うといった具合で、その『答』は一貫性のないものであった。生きた生徒を対象にしているのだから、状況や事情が変われば、『答』が変わってもよいと考えてきた。
 しかし、振り返って思いおこしてみると、どうしても変えることが出来ないような『考え』もいくつかあったように思われる。また、ここ二、三年、学年主任として、多くの謹慎特別指導に関わる中で、いくつかの『発見』や考え方の『変化』も経験した。

 この機会(チャンス)に、その辺の『考え』や『発見』を、『書く』ことによって整理してみたいと考えている。うまく整理が出来るかどうかは分からないが、『書く』ことによって、考えを整理したり、確かめたり、新しい考えを醸成したりすることが出来るのではないかと考えているからである。

 生徒の問題行動が発覚したときには、ほとんどの高校で謹慎特別指導を行なっている。私の学校の謹慎特別指導は、各教科担任が課題を与え、毎日、反省文と日課表を書かせ、たまに担任が家庭訪問をし、各教科担任の指導と点検を受けるという方法であるが、この方法は、一定の効果をあげていると考えている。現在の学校の状況(多忙な仕事、問題を抱えている生徒が多い状況、指導力の限度、特別指導に対する考え方の違い)に適った、現実的な指導法だと私は考えている。私だけではなく、大方の高校教師が、そのように見ているのだろうと思われる。
 たまに、この謹慎指導を疑問視する意見も聞かれるが、その多くは、謹慎指導そのものを否定するものではなく、指導の仕方が形式化していてあまり効果が上がっていないという、指導のあり方に対する疑問である。

 このように謹慎指導を一応、肯定的に評価している点では、大方の高校教師が一致しているようであるが、この謹慎指導の意義をどう捕らえているかという立場になると、一人ひとりの立場はかなり異なっている。この立場の違いを反映して、生徒に対する指導の仕方・接し方にも違いがある。 この謹慎指導のことを、一昔前までは、『懲戒処分』と言っていたが、最近では、『特別指導』と言うようになってきている。これは『こらしめ』としての立場ではなく、文字通り『特別』に『指導』をしようという、謹慎指導の意義そのものに大きな変化があったからであろう。『処分』から『指導』へと変化したのである。しかし、高等学校の現場では、依然として『処分』としての意識が根強く残っているようにも思われる。

 この立場の違いと、それを反映している指導の仕方の違いについて、以下のような四つの立場にパターン化して考えてみたい。

  〔1〕『みせしめ』の立場

  〔2〕『こらしめ』の立場

  〔3〕『ジレンマ』の立場

  〔4〕『チャンス』の立場

 これらの立場は、どれも一人の教師の中に混在しているものであるが、どの立場を重視しているかという観点からパターン化して、また、その特徴を明確にするために、あえて極端化して考えてみたい。

  〔1〕『みせしめ』の立場
 『みせしめ』の立場とは、謹慎指導の一側面である『みせしめ』としての効果を、最も重視しようとする立場である。
 この立場に立てば、特別指導はできるだけ厳しいほうが効果的だし、問題行動が度重なる場合には指導期間を増やしていくべきだし、他の生徒に対して最も効果のある指導(みせしめ)は退学処分だという結論に容易にたどり着く。

 そして、『みせしめ』によってこそ、生徒を管理でき、教育することができると考えて、それを、主要な教育の方法として取り入れていくことになる。生徒に寄り添い、励まし支え、生徒の内面に変化を見つけていこうとするような指導(後述の        や の立場)は、効果のうすい方法で、『厳しい指導』に対立する『甘やかし』だとさえ考えられることとなる。
 また、この立場は、多くの生徒を集団として、自らはそれほど労することなく(傷つくことなく)、画一的に指導(管理)できるという強みも持っている。そして、実際にある一定の外面的な効果が上げられるので魅力のある立場である。現実に、謹慎指導(みせしめ)は、現在の学校の状況の中で、生徒の問題行動を思い止まらせる役割もある程度果たしている。私自身は、この立場は好きではないと思っているのであるが、実際には、時々、この立場を利用して生徒を脅してもいる。私自身の教育的力量や行動力や情熱の不足をごまかしているのだと自覚していながらも、この方法が楽なので、ついつい生徒を脅してしまう。

 この立場は、生活指導の場面だけではなく、教科指導の場面でも表れてくる。普段の授業でも表れるが、特に、学期末の成績評価や進級認定の場面で、「成績評価は出来るだけ厳しくしたほうがよい。」、「進級認定も出来るだけ厳しくしたほうがよい。」という主張になって表れる。もっと露骨には、「ホーム運営、学年運営の立場からも、ある程度の落第者を出すべきである。」、「あんなにやる気のない生徒を進級させたのでは、他の生徒が怠けてしまって、来年度の授業やホーム運営がさらにやりにくくなる。」という主張となって表れる。
 この主張は、極端に基礎学力や学習意欲が不足している生徒が多く、授業が成り立ちにくくなっているような状況の場合には、確かにある程度の説得力がある。私自身も、これは程度の問題であるが、十分に指導を尽くしても、まったく見込みのない生徒については、落第も仕方がないことだと考えている。そうしないと授業や秩序が成り立たなくなってしまうような、困難で複雑な生徒の状況もあるからである。しかし、一方では、いつも大きな疑問を感じてもいる。
 それは、「この主張は、あまりにも教師の立場だけに立った主張ではないか」ということである。生徒の立場に立って考えると、教師が大事だと考えて与えている教育内容が、生徒の現実生活(人生)にとって、はたして真に意義のあるものなのかという疑問である。今の高校教育の内容は、余りにも膨大で細部にこだわりすぎているのではないかという疑問である。形骸化した知識(真理)を詰め込もうとしているだけなのではないのかと言う疑問である。大学受験を通過しない生徒にとって、真に意義のあるものなのかという疑問である。また、たとえ意義のあるものであったとしても、そのことを生徒自身が認識できるような授業の内容と方法を創り出そうとしているのかという疑問である。
 また、現代の受験体制、詰め込み主義、競争主義のなかで、もっとも犠牲になってきた生徒でもあるのに、そう簡単に見捨ててもいいのかという疑問もある。「我々の側に、もう指導する術が本当にないのか。」、「生徒の中から可能性を引き出すことこそが教育ではないのか、ほんとうにもう可能性はないのか。」という疑問をいつも感じるのである。 教育の内容と方法(生徒の学力や意欲や意志力の弱さにも配慮した方法)については、全面的に我々教師の側の責任であるはずであるが、従来の教育内容と教育方法を受け入れないから、生徒の方が一方的、全面的に悪いのだというだけでいいのかという疑問である。 「生徒のほうが一方的に悪いのだから、もう我々の側には譲歩する余地がなくて、もっと厳しくしていくしか方法はないのだ」と言ってみても、今日の困難な事態を解決する展望は見いだせないように思えるのである。

 本来的に、『学習』とは、生徒の『認識の世界』を広め、深めていくことであるべきである。そういう『認識の世界』の広まり深まりには、喜びや感動が伴うはずである。ところが、いまや『学習』は、競争のための『苦役』になってしまっている。
 教育内容については、生徒の現実世界に適合していて、現実世界が読み取られるような内容に改める必要がある。教育方法については、生徒が主体的に学べるように、操作、作業、実験、調査、レポート、発表というような多様な方法を取り入れる必要がある。受験知識を一方的に詰め込むような授業内容と方法は、もう明らかに限界に来ているのだと思う。大学受験を通過しない生徒にとって、そのような授業内容と方法は、魅力がないことは論理的にもあまりにも自明である。教育の内容と方法について、抜本的な、思い切った改善が必要だと思う。

 このような疑問(意見)に対して、「そのような甘いことを言って、子供を甘やかすから、ますますイージーな子供になっていってしまうのだ。」また、「私たち教師はスーパーマンではないので、現状の学歴主義・受験体制の仕組みや多忙さ中では、そのような理想を言っても、事態は解決できない。」という意見もある。その意見も一部当たっているとは思う。確かに理想論かも知れない。

 しかし、それならば、そういう体制を作り出している仕組みや人々について憤りを感じ、教育条件をよくする運動に、もっと敏感で積極的であるべきである。また、生徒には、「他人の立場に立って考えられる人間になれ。」、「他人の痛みを感じられる人間になれ。」、「現実と理想の折り合いをつけながらも、理想や夢を捨てずに生きよ。」などと言ったり書いたりしている人が、「退学させるべきである。落第させるべきである。」と声高に言うのを聞くと、私の疑問は、正直なところ、ますます大きくなるのである。

                                                           

 〔2〕『こらしめ』の立場 
  『こらしめ』の立場とは、謹慎指導の一側面である『こらしめ』としての効果を、重視しようとする立場である。『特別指導』を、『懲戒処分』ととらえる立場である。本人に対しては『こらしめ』、他人に対しては『みせしめ』の効果を重視するので、前述した『みせしめ』の立場と重複していることも多い。『みせしめ』と『こらしめ』は表裏の関係になっている。

 教師がこの立場に立っていると、生徒の方は、指導期間中だけ謹慎をして、課題をこなしさえすれば、償いは(反省)は済ませた(終わった)という意識になりがちである。
 また、この立場からは、「同じ問題行動には、同じ謹慎期間を・・・」、「前例では退学になったので、この場合も退学に・・・」と、公平さが強く主張される。法にもとづいて厳格に決められる裁判でさえも、本人の動機や反省の程度や将来の可能性に照らして、情状を斟酌して決められるものなのに、学校の特別指導にだけは、形式的な平等性が要求されるのである。生徒に与える不公平感が、その理由に上げられるが、それは、教師の指導でどうにでもなるものなのである。

 また、一回で『こらしめ』の効果がなく、二回、三回と問題行動を起こすと、もっと厳しく(謹慎日数を増やして)こらしめ、それでも効果のない者は退学勧告(処分)にと安易に退学勧告にもたどり着く。謹慎指導と退学勧告(処分)の間には、訓告と免職ほどの大きな差があるのに、相手が生徒の場合には容易に退学勧告(処分)にたどり着いてしまうのである。
 また、この『こらしめ」の立場をさらに重視していくと、『体罰』には『みせしめ』や『こらしめ』としての効果はもっと即効的なものがあるので、極端な場合には、『体罰』さえも容認されることとなるのである。
 この立場に立つと、懲らしめて効果が見られないときには、もう指導を放棄するほかなくなるわけで、突然、飛躍して退学勧告にたどり着いてしまうわけである。『みせしめ』や『こらしめ』の管理の枠からはみ出てしまった生徒は、指導できなくなってしまって、『腐ったみかん』と見做さざるを得なくなってしまうところが、この『みせしめ』や『こらしめ』の立場の最大の弱点ではないだろうか。 しかし、問題の生徒が退学してくれれば、それだけ問題行動の量は少なくなり、クラス運営、生徒管理がスムーズにできると言う強みを持っている。さらに、いつもこの立場を強く主張していれば、生徒からは、厳しい先生と見られ、生徒にも甘えがなくなり、生徒管理が徹底できるという強みも持っている。

 私は、教育機関としての学校が、生徒に退学を迫ることが出来る場合は、『我々の側に、その生徒を指導する方法や見込みがまったくなくなってしまっていて、しかも、その生徒が、防ぎようのない広範な悪い影響を、他の生徒に明らかに与えているときに限られる。』と考えている。我々教師は、生徒を変えていくことが仕事なのだから、どんなことをした生徒であっても、その生徒に可能性を見つけることができるならば、退学処分にすべきではないと考えている。その生徒がやったことの反社会性や犯罪性の程度は、警察や裁判所が決めることで、生徒を教育する学校は、生徒の将来の可能性をまず第一義的に考えて判断すべきであると考えている。従って、同じ問題行動でも、可能性のまったく見えない生徒の場合には、退学勧告となり、可能性の見える生徒の場合には、謹慎となっても少しも矛盾しないと考えている。

 以上のような発言をすると、たいていつぎのように反論される。

 「そんなに甘いことを言っていたのでは、生徒に嘗められてしまって、『こらしめ』の効果が薄くなってしまう。今後の生徒指導ができなくなってしまう。なんべん懲らしめても懲りない『腐ったみかん』は、取り除かなければ、どんどん伝染してクラス全体が腐ってしまう。甘やかしたために、指導や管理が成り立たなくなってしまった『崩れたクラスの恐さ』をこれまでに見てきたので、何としてでも『崩れたクラス』になることだけは防ぎたい。」という反論である。

 そこで、私もまた次のように反論する。

 「生徒は、その反省をした時には、裏切るつもりがないけれども、結果的には裏切ってしまうこともある。子供は、成長途上にあるのだから本来的に、未熟さの間を振幅大きく揺れ動きながら変化する人間だと覚悟していたほうが、生徒に絶望せずに、指導の意欲は長続きするのではないか。」
 「何度か裏切られたのでもうダメだと言うのではなく、裏切られても信頼できる内容を子供の中に見つけようとする努力が大事だ。また、見つけられる力を養うべきだ。教師の権威とは、そうした関わり・姿勢の中からこそ生まれてくるものではないだろうか。」
 「私の経験では、『腐ったみかん』でも、支えて励ましていけば、必ず変化していくものだ。『崩れたクラスの恐さ』はよくわかるけれども、教師が生徒と心のパイプ(接点)を多く(太く)保っていけば、そんなに恐れる必要はないのではないか。クラスへの影響は、程度の問題であるが、そのことをあまりに恐れて、『腐ったみかん』を取り除いて作られたいわゆる『よいクラス』にこだわり過ぎると、教師自身の可能性まで限定してしまうことになるので良くないのではないか。」
 そして、なによりも「『腐ったみかん論』に立っていたのでは、教師の側に、その生徒を指導する情熱も湧いてこないし、また生徒の側にも変わろうとする意欲を起こさせることもできない。その立場に立っていたのでは、どんな『完璧な指導』も、その生徒には通じなくなってしまうのではないか。『腐ったみかん』と見做したときから、生徒と教師は敵対関係になるのではないか。そして、そんなことが繰り返されると、教師は、ますます生徒不信に陥り、疲れ果ててしまうのではないか。」
 また、「生徒や親の悩みや苦しさを感じて、共感していけなければ、教育という仕事はあまりにも機械的でむなしく、寂しい仕事になってしまうのではないか。」と反論する。 すると、また次のように再反論される。

 「これからの厳しい現実社会で生きていくためにも、『規則を破ったら退学になる』、 『努力しなかったら進級できない』という厳しさを、今、身をもって教えることが大事である。今、そういう厳しさを体験させたほうが、長期的に考えると、彼の将来のためにもなる。」さらに、「ホーム担任の私が良くできなかったこんなひどい生徒を進級させたのでは、次の担任や教科担任にも申し訳ない。」という反論である。

 ついつい、私も、また、次のように反論したくなる。
 「彼の将来のためになるのかどうかは、彼自身が決めるべき事柄で、教師がそのように判断できると考えること自体、教師の独善的な考え方だ。たとえ生徒であっても、他人の人生の将来について、他人の我々が断定できるなどと考えること自体、傲岸不遜な考え方だ。」「また他の仲間の教師に申し訳ないと言うが、次の担任は気が合って、うまく指導できるかも知れないし、どうして仲間の教師には申し訳なくて、肝心の生徒には申し訳なくないのか。」というような論争になる。

 昔は、このような論争をしたような記憶もあるが、このような論争になってくると、数学のように論理的に正解を見つけることが難しくなってくる。それで、この頃は、なるべくこのような論争は避けることにしている。論争の中からではなく、実際の実践・経験の中から、私たち一人ひとりにあった正解を見つけることができるのではないかと考えているからである。私自身は、どちらの立場が、私自身のエネルギーを無理なく引き出してくれるのかという観点から、いつも『私の答え』を考えることにしている。

                                                         

〔3〕『ジレンマ』の立場
 『ジレンマ』の立場とは、謹慎特別指導の三つの側面(『みせしめ』『こらしめ』『指導』)を、同等に重視しようとする立場である。前述したが、現在の困難な教育現場の状況の中で『みせしめ』の効果は機能しているわけであるし、担任として生徒の内面に働きかけて生徒を変えようとするならば、『指導』の立場に立たなければ生徒を変えることができないわけだから、大方の担任は、この立場に立っているのではないかと考えられる。私も、これまではこの立場で考えてきた。また、厳しい『こらしめ』があるからこそ、生徒自身も内面に葛藤を起こしていて『指導』を受け入れ易くなっているわけなので、『こらしめ』の側面も決して無視することはできないのである。
 生徒を集団としてとらえると、『みせしめ』の立場を重視し、生徒を個人としてとらえて関わろうとするときには、『指導』の側面を重視せざるをえなくなるのである。この立場は、担任が、『みせしめ』と『指導』のジレンマに立たされるので、この立場を『ジレンマ』の立場と呼ぶことにした。

 ところが、ここ二、三年、学年主任として、数多くの謹慎特別指導に関わる中で、この『ジレンマ』の立場に、疑問を感じるようになってきた。この立場に、いくつかの弱点を感じるようになってきたのである。
 その弱点の一つは、生徒の問題行動が重なると、すぐに『指導』の効果についての自信が無くなってしまい、ついつい『みせしめ』や『こらしめ』を重視する立場に陥りがちなことである。かろうじてバランスをとっているので、問題行動が重なると、「指導が甘いのでは・・・」という思いや意見に耐えかねるわけである。指導部や管理職から、「少し、問題行動が多いので締めてほしい・・・」などと言われると、ついつい、手っ取り早い『みせしめ』や『こらしめ』の効果を期待してしまうわけである。
 また、この立場は、校内でのバランスを強く意識していて、自分の確固としたスタンスが定まっていないため、校内において『みせしめ』の声が強くなってくると、容易に『みせしめ』の立場に傾斜してしまうのである。とくに、その生徒との接点が少ない場合には、その生徒の内面の変化が読み取れず、容易に『みせしめ』の立場に傾斜してしまうのである。生徒との接点を深めれば深めるほど、『みせしめ』の立場には立ち難いはずであるのに、日頃から生徒との接点を深めていて『指導』に熱心な教師が、突然バランスを崩してしまうこともある。
 さらに、この立場は、生徒の問題行動が重なってくると、心身ともに疲れてきて、ストレスが溜まりやすいという弱点も持っている。そして、徐々に生徒不信に陥ってくるという重大な弱点も持っている。そんなときには、「もうこの生徒は限界だ・・・」という思いに駆られるが、後になって振り返ってみると、限界なのは生徒の側ではなくて、我々教師の側の指導力の限界であることも多い。

 そこで、これらの弱点を補うために考えるようになった立場が、次の『チャンス』と考える立場である。

  〔4〕『チャンス』の立場
 『チャンス』の立場とは、先の『ジレンマ』の立場の『指導』の側面をさらに前面に出して、謹慎指導は、生徒の心に葛藤を起こさせ、内面的な変化を起こさせるまたとない絶好の機会(グッドチャンス)だと考える立場である。
 問題行動は、生徒の置かれている精神状況や環境の中から、生じるべくして生じた行動だと考え、生徒の無意識な不満の表明だと考えるのである。さらに発展させて、問題行動は、その生徒の成長にとって、意味のある行動であると考えるのである。

 問題行動をこのような観点から見るならば、自分の内面を自覚させず、内面の問題を克服させていなかったならば、問題行動を繰り返す生徒は、どんなに懲らしめても、また繰り返すということになるわけである。前回の処分が甘かったからではなくて、本人の抱えている問題が根の深いものであれば、また繰り返すことになるのである。本質的に大切なことは、厳しく懲らしめるかどうかではなくて、生徒の内面に隠されている背景、不満を自覚させ、克服させることである。
 このように考えるならば、この謹慎指導の機会は、その生徒にとって成長できるグッドチャンスになるはずである。問題行動が発覚しなければ、成長するチャンスさえも与えられないわけだから、発覚して本当に運が良かった『グッドチャンス』ということになるわけである。

 また、生徒にとってグッドチャンスであるだけではなく、教師にとっても、その生徒と深く関われるチャンスだと考えるのである。考えるだけでなく、実際に、生徒と深く関わってみると、どんな生徒の中にも、成長の『芽』や『意志』を見つけることができるものである。そして、この成長の『芽』と『意志』を自覚させ、支え励ましていけば、必ず変化をさせることができるものなのではないだろうか。
 そして、そのような関わり方をして、生徒の中に成長の『芽』や『意志』を見つけだせた時に、教師もまた生徒から励まされ、エネルギーを与えられるのではないだろうか。時には、『腐ったみかん』からもエネルギーを与えてもらえるのではないだろうか。教師のエネルギーや意欲は、高邁な教育哲学(書物)や熱血あふれる人間性の中から無尽蔵に湧き出てくるようなものではなくて、日々生徒に支えられながら、生徒から、それを補充していくようなものなのではないだろうか。

 このように考えてくると、教育とは、一方的に教師が生徒にサービスするというようなものではなくて、お互いに支えあい、エネルギーを与えあって営まれるものだとも言えるのではないだろうか。
 「生徒の可能性を信頼して・・・」と言っても、教師の『心がけ』だけで信頼できるようになるわけではない。『心がけ』をどんなに強く決意しても信頼できるようになるわけではない。現実の教育現場は、何事についても、教師の心がけだけで克服していけるような甘い状況ではないからである。

 生徒の中に、自ら問題を克服して成長していく『力』を見つけだせた時に、教師は、生徒を信頼できる確かな『目』を持つことができるのではないだろうか。そして、教師は、そこからエネルギーを与えられのではないだろうか。
 そうであるならば、そのようにエネルギーを与えられるような考え方、関わり方をしていかなければ、現在の困難な教育状況を切り開いていくような展望も持つことができないのではないだろうか。そして、このように考えて、生徒に接したときに、教師も生徒も、初めて、「問題行動が、発覚して運が悪かったのではなくて、本当に幸運だったのだ。」と自覚することもできるようになると思うのである。
 しかし、この『チャンス』の立場は、生徒の立場を尊重するあまり、結果的に生徒を甘やかしてしまうという危険性も持っている。生徒との間で出来るだけ多くの接点を持ちながら、肝心なことについては妥協せず要求していく『厳しさ』も必要だと思う。また、前述したように『みせしめ』や『こらしめ』の効果も、全く無視するわけではないので、この立場は、チャンスと考えながらも『バランス』をとる立場であるとも言える。
 さらに、教師の仕事が多忙で、問題の生徒が多いという状況の中では、『言うは易く、行なうは難し』の立場である。まさしく理想論である。
 しかし、私自身は、理想と現実に折り合いをつけながら、理想や夢を捨てずに生きていきたいとも思う。『生徒のために・・・』といえるほどの自信はないので、『生徒からエネルギーを与えてもらえるように・・・、そして私自身が無理なくエネルギーを発揮できるように・・・』という視点で、これからも生徒に関わっていきたいと考えている。

 おわりに
  これまで、それぞれの立場を浮き彫りにするために、あえて極論を展開してきたが、私の学校で教師集団が、これらの立場に判然と別れていて対立しているわけではない。

 『みせしめ』や『こらしめ』の立場を重視するのも、『良い学校にしたい』、『良いクラスにしたい』『良い生徒を守りたい』との一心からであるし、『ジレンマ』や『チャンス』の立場も同じ思いだからである。教師の思いは同じであるが、微妙にこれらの立場を混在させているのだろうと思う。混在させながら、どの立場を重視しているかによって、指導の仕方に違いが出てきているように思われる。
 立場の違いを殊更に強調するのではなく、それぞれが持味を活かして、自分流のやり方で個性豊かに仕事が出来る、それらが認めあえるような学校の雰囲気を作っていくことが大事だと考えている。そのほうが、結果的には、教師のエネルギーが無理なくしぜんに発揮できて、総体的には良い教育が出来ていくということになるのだろうと思われるからである。自由性や多様性の保障されない教育は、必ず先細りするだろうと思われるからである。                                                                                 一九九六.四