現代若者気質を考える---「若者による凶悪犯罪はなぜ」
0.はじめに
事務局の方から『現代若者気質』というテーマをいただきましたので、このようなレジュメを用意してまいりました。
第一部は、若者の一段面として4つの断面を考えてきました。
@三無主義の一般化−−−『生きた体験』の不足
A社会性の未成熟−−−−『あそび』の不足
B自己肯定感の低下−−−『学力偏重価値観』
C生活習慣の乱れ−−−『物優先価値観』 です。
そして、それぞれについて、その『背景』を考えてきました。いずれの断面も、いろいろな背景が複合して生じてきているわけですが、話をわかりやすくするために、図式的にして、最も強く反映していると思われる背景を一つずつ考えてきました。そして、これらの断面を重ね合わせてみますと、近年の「若者による凶悪犯罪」も異常なものではなく、これらの断面の延長線上に見えてくるような気がしてきましたので、副題を「若者による凶悪犯罪はなぜ」としました。
第一部は、若者の否定的な断面ですが、これはあくまでも段面であって、いつの時代にも、若者は若者らしい期待できる側面もたくさん備えていますので、第二部では、期待できる側面として3つの側面を考えてきました。
@潜在しているエネルギー
A精神のしなやかさ
B発達可能性 です。
若者のこれらの否定的すべき断面と肯定できる側面を踏まえて、今、私たちにできることは、それぞれの立場で、家庭の役割、学校の役割、地域の役割、社会の役割を見直すことではないかと考えています。それで、第三部では、私たちに最も身近な家庭の役割を見直す4つの視点を考えてきました。もちろん見直すべきところは家庭だけではなく、学校も地域も社会も必要だと考えていますが、今日は時間がありませんので、家庭に限定してお話をさせていただきます。
@『生活習慣』の重視を
Aスマートな『マナー』を
B『共感の広場』に
C『生きた体験』を
です。
さらに、今日は、時間の制約もありますし、近年の若者による凶悪犯罪にアプローチするためにも、第一部に力点をおいてお話をさせていただきます。
1.若者の一断面とその背景
@三無主義の一般化
三無主義
三無主義という言葉を、皆さんお聞きになったことがあると思います。この用語は1970年代に高度成長が始まった頃、若者が無気力で無関心で無責任になってきた様子を表現するために、盛んに使われた用語です。最近では、もう使う人がいなくなってしまいました。それは、若者が三無主義でなくなったというわけではなくて、三無主義が若者全般に一般化してしまったので、言葉としての威力が失われてしまったのだろうと思われます。
増えつづける不登校生、退学生
この三無主義の中で、最近、もっとも目立つ現象が、無気力な若者が増えてきたことです。無気力症候群といってもいいような、顕著な症状が見られます。
例えば、昔はどんなに勉強のできない生徒でも、授業中、ノートだけは必死にとりました。それが、最近では、何度注意してもなんにもせずに寝ていたり、まったくノートをとらない生徒が増えてきました。
この無気力症を端的に表わしている現象が、小中学生の不登校生と高校生の退学生の増加です。不登校になっている小中学生は年間約13万人もいます。高校を中退する生徒も年間11万人もいます。福井県では毎年500人もの生徒が退学していきます。これは、小規模の高校が1校ずつ消えていくような数字です。
そして、その不登校や退学の理由で、もっとも多いのが無気力症候群だと思われます。昔は、大工さんになりたいから、美容師になりたいから、音楽の道に進みたいからというような、はっきりした理由があって、高校を退学したいという生徒がかなりいました。それが最近では、どうして学校をやめたいのか理由のはっきりしない生徒が増えてきました。3年生の2学期になってからやめていくような生徒もいます。しいて、生徒の言葉をかりて表現すると「学校へ行くのが面倒くさい」というわけです。けだるい無気力感に覆われているように思われます。
私たち教師は、どうしてもう少し頑張られないのか、しばしば歯がゆい思いをさせられます。保護者の方も同じ思いで、理解に苦しんでいる方が多いことだろうと思われます。
『生きた体験』の不足
これらの背景には、子供たちの生活から『生きた体験』が希薄になってきていることがあるのではないかと、私は考えています。
私が子供の頃は、日曜日になると、小川をせきとめて、魚とりやしじみとりに心踊らせました。農家の子供は、農繁期には、一人前の労働力として手伝いをしました。貴重な生活体験でした。夜になると、おじいさんの膝の上で、月を眺めながら話を聞きました。このような自然体験を通して、自然の美しさに感動できる心が培われていったのだと思います。
生きた体験の中で、傷ついたり、嬉しかったり、悲しかったり、驚いたり、心地よかったり、美しさに感動したり、このような感動を核にして、興味・関心や好奇心が芽生え、それらに魅かれて気力を出していたのです。人間の気力だけが独立して存在していて、気持ちの持ちようでそれが出せるようになるものではなくて、気力は感動を核にして生み出されてくるものなのではないでしょうか。
1970年代の高度成長が始まった頃から、生活の中から、『生きた体験』が失われていきました。したがって、感動が希薄になって、無関心になり、無気力になってきているのではないでしょうか。
テレビやゲームやマンガなどで見る体験は、すべてが擬似体験です。擬似体験で得られる感動は、生きた体験とは比べものにならないほど質の低いものです。擬似体験では、生きていることのリアリティーが感じられないのではないでしょうか。
1997年に神戸市で起きた小学生連続殺傷事件の少年は、犯行声明文の中で「透明な存在であるボク」と言っていますが、彼は、自分の存在にすらもリアリティーが感じられなかったのだろうと思われます。
A社会性の未成熟
対人関係の発達障害
最近の若者は、人間関係を築く能力が低下してきているように思われます。最近では、新入生が入学してきますと、一クラスで数人の生徒が人間関係をうまく築けずに孤立してしまいます。そして、そのことが理由で不登校や退学になっていきます。学校というところは、授業はつまらなくても、友達との『共感の広場』が見つけられれば続くものです。それが人間関係をうまく作れずに、疲れてしまうわけですから、毎日が苦痛の連続ということになるわけです。
佐賀県の高速バス乗っ取り事件(2000.5)の少年は、高校1年の時、対人関係のもつれから家庭に閉じ込もっていました。岡山県のバット殴打事件(2000.5)の少年も、対人関係がうまく築けず、心の中にうっ積してたまっていた火薬が爆発したように思われます。新潟県の少女監禁事件(2000.1)の青年も、京都の小2児童殺傷事件(1999.11)の青年も、東京の連続通り魔事件(1999)の青年も、全日空機長刺殺事件(1999)の青年も「引きこもり」でした。このように例を上げていくと切りがないくらいです。
心理学者や精神科医の専門家は、このことを『対人関係の発達障害』と名付けているほどです。臨床心理士の降旗志郎氏は、「対人関係の発達障害の出現率は1%とかなり高く、この30年間で50倍になってきている」と警告しています。この出現率は、私の実感では、ここ数年、加速度的に増加しているように感じられます。しかも、面倒なことに、この対人関係能力の発達には、適時性があり、幼稚期から小学校の低学年の間に身に付けなければ、中学生や高校生になってから(青年期)ではなかなか身につけがたい能力のように思えるのです。
希薄な人間関係
また、子供たちの人間関係も希薄になってきています。ある生徒が「私は親友には本心を言わない・・・」と話してくれたことがあります。「どうして?」と聞きましたら、「親友とは、私の好きな人なので、本心を話して、『暗い子だ、ださい奴だ』と思われて嫌われたら困るので・・・」と答えたのです。また、久々に小学一年生を担任した教師からこんな話を聞いたこともあります。昼休み時間に教室へ行ったら、数人の生徒が、ぼんやり座っているので、「早く校庭へ行って友達と遊んできなさい」と言ったら、その中の一人が「先生、友達と遊ぶと疲れるんです」と言ったそうです。それでよくよく聞いてみたら、体が疲れるのではなく、友達と遊ぶと気を使わなければならないので、気疲れしてしまうということだったので驚いたという話を聞きました。信じがたい話のように聞こえますが、子供たちの人間関係はこのように希薄になってきているのです。
目立ってきた自己中心性
社会性が未熟ですから、相手の立場に立って考えることができないため、自己中心性が目立ってきました。今日、1時間目のことですが、授業が終わって一人の生徒が質問に来ました。私が黒板で説明していると、後ろから別の一人が質問してきました。それで、「今は説明しているところだからダメ、後で・・・」と言いましたら、「ああ先生は、俺を無視した、むかついた・・・」と言い残して行ってしまいました。最近は、若者のこのような自己中心性の強い行動に頻繁に出会うようになりました。しかも、この自己中心性の不都合さを、自己中心性の強い本人に説明しても、理解されないのですからやっかいです。
愛知県の主婦殺傷事件の少年は、「人を殺す経験をしてみたかった」と言ったそうですが、恐ろしいほどの自己中心性です。
『あそび』の不足
これらの背景には、子供の頃の『集団あそび』の不足があるのではないかと考えています。私が子供の頃は、兄弟姉妹が5人もいて、毎日じゃれあって育ちました。小学生の頃の遊びは、『すもう』や『プロレスごっこ』でした。犬や猫や猛獣でさえも、子供の頃にはじゃれ合ってあそびます。あのじゃれあいを通して興奮と抑制の制御機能を本能的に鍛えているのだろうと思われます。人間の場合には、じゃれ合いが、感情を制御する大脳新皮質「前頭葉」の発達に影響しているという研究報告(日体大 正木健雄報告)もあります。この「じゃれっこ」を保育教育に取り入れて、興奮と抑制の機能を発達させている報告もあります。正木教授は、この前頭葉の未発達が、近年の若者のキレル凶悪犯罪や学級崩壊の背景になっていると指摘しています。
学校から帰ると、地域では、小学生から高校生まで、入り乱れて遊びました。真暗になって「ご飯だよ」と呼ばれるまで徒党を組んで遊んでいました。大人もよく遊んでくれました。私は、田舎の駅員さんに将棋を教えてもらいました。近所の大人たちもよく声をかけてくれました。このような社会体験を通して、自然に人間関係能力を身につけていったのだと思います。
さらに、核家族の上に、少子化現象で、お母さんと2人の閉じられた母子社会の中で人間関係の摩擦もあまり経験せずに育ってきています。
子供たちの遊びも、集団遊びから一人遊びへと変化してきました。遊びの様子を見ていますと、一人はファミコンゲームを、一人はマンガを、一人はテレビをといった具合に、それぞれが一人遊びをしながら群れているだけなのです。希薄な友達関係を維持しながら、無意識の内に人間関係のわずらわしさ(摩擦)を避けてバランスをとっているようにもみえます。
B自己肯定感の低下

自己肯定感に関する調査より
昨年、日韓文化交流基金という財団法人が、日本と韓国の若者の意識についての大がかりな比較調査をしました。それによりますと「自分のことが好きだ」という中学生が、韓国75%だったのに対し、日本は50%しかいませんでした。ある中学校では30%しかいなかったという調査報告もあります。また、「将来、社会的活躍ができると思うか」との設問に、「できると思う」と答えたのは、韓国79%に対し、日本の高校生は34%しかいませんでした。
また、一昨年、総務庁が世界の青年の意識調査を実施しました。「あなたが誇れるものは何ですか」との設問に、「誇れるものは何もない」と答えた日本の青年が9.1%もいたのです。アメリカの0.4%、イギリスの0.6%に比べると大変な数字です。誇れるものが何もないということは、失うものも何もない訳ですから、日本の若者は、約10人に1人は、失うものが何もないということになります。
また、同調査で、誇れるものとして「賢さ」をあげた若者は4.1%しかいませんでした。アメリカの64.9%、イギリスの36.5%と比べると極端に少ない数字です。
このように、自分のことが嫌いで、自信もなく、将来も大したことがないと考えている若者が大勢いるのです。そのように思っていて、何かに挑戦する気力が出せるでしょうか。生活意欲も低下して、楽して生きていこうという生活態度になりがちです。今、自立できずに、家庭にひきこもっている若者が数十万人もいるだろうと推定されていますが、彼らも自己を肯定できないのだろうと思われます。神戸の小学生連続殺傷事件の少年も、佐賀県のバスジャックの少年も、嫌いな自分を、無目的に、自ら罰した(自滅した)のではないでしょうか。
自己概念のつくられ方
望ましい自己肯定感が作られた具体的な例をお話します。私の知人の話です。兄は記憶力がよくて成績優秀でした。妹は記憶力が悪くて、点数が取れませんでした。しかし、お母さんは、その妹に、いつも「あなたは、点数が取れなくても、優しいから偉い」と言い続けていました。そして、今、その妹は、老人養護施設で生きいきと働いています。お母さんの「優しいから偉い」という子供観が、妹をますます優しい人間にしたのではないでしょうか。
もう一つ具体例をお話します。私が、保護者(三者)懇談会の時に、成績表とは別に、「がんばった人シリーズ」をお渡しした時のことです。息子の成績は下がっていましたが、無遅刻・無欠席の欄に息子の名前を見つけたそのお母さんは「偉かった」と言って、息子を抱き寄せて誉めたのです。そして、帰り際、私の耳元で「あの子は、私の宝です」とささやいたのです。その息子は、今、立派な2児の父です。「私の宝です」と言うお母さんがいて、息子は健全に成長できたのです。
自分がどういう人間かという認識を自己概念といいます。自己概念は、自分一人でわかるものではなくて、他人から言われて、その気になって創られていくものなのです。親や教師の子供観が子供の自己概念を創るのです。
学力偏重価値観
若者たちが、自己肯定感を持てない背景には、私たちの学力偏重価値観があるのだろうと考えています。人間の能力は学力だけではなく、体力、指導力、社交性、芸術性、・・・・等々、多様なものです。しかし、学校でも家庭でも学力に偏重して、点数という一本の物差しでみています。点眼鏡をかけているのです。一本の物差しで、順番をつけられると、肯定されるのはほんの一握りの人になります。残りの人は「まだ駄目よ、駄目よ、もっと、もっと」と競争させられるわけですから、自分は駄目な人間だと思い込んでしまうのではないでしょうか。
C生活習慣の乱れ
不規則な食事、少ない睡眠
皆さん、朝御飯を食べずに学校へ来る高校生がどれくらいいると思われますか。日本全国の統計(日本学校保健会)ですが、6人に1人はまったく朝御飯を食べてこないのです。時々食べてこない数字も含めると、4人に1人は朝御飯を食べてこないのです。 先日、就職面接の指導をしていた時のことです。一人の生徒に、「昨夜、夕食の時、家族でどんな話をしましたか」と質問したら、「僕の家では、帰ってきた人からひとりずつ食べるので、なんにも話しませんでした」と答えたのです。偶然だとは思いますが、他の2人にも同じ質問をしたら、同じ答えがかえってきたのです。日本学校保健会の統計によると、家族揃って食事をとる家庭は年々減少してきていて、1999年では約半数なのです。家族の一人一人がバラバラで、それぞれの快適さだけを追求するホテル家族になっているのです。 皆さん、高校生は、何時間睡眠をとっているか、想像できますか。全国の統計ですが、4時間から6時間という生徒が約50%です。若者の健全な発達に必要だと言われている7時間以上とっている生徒は、50%を割っているのです。高校生の平均就寝時刻は御前様(0時05分)になっているのです。
当然のことながら、日常的に体調不良を訴える高校生が増えています。朝食を食べず(15%)に寝不足(約65%)で学校へ来て、いつも体調不良で、健全に発達できるわけがありません。
言うまでもなく、肉体と精神は相互に作用しているものです。生活リズムの乱れが、生理的に不安定になり無気力症や情緒不安定を引き起こし、ひいては対人関係にも影響を与えないはずがありません。食生活や睡眠といった最も基本的な生活の面から、子供の危機にアプローチしている専門家もいます。
物優先価値観
生活習慣が乱れてきた背景には、物優先価値観があると考えています。
近年、私たちは心で心を満たすのではなく、手っ取り早く、物で心を満たそうとするようになりました。人に喜んでもらえた充実感や物事をやり遂げられた達成感や人に認められた存在感や感動や面白さで心を満たすのではなく、物を沢山所有し、消費することで、心を満たそうとするようになりました。面白さを工夫して、楽しむのではなく、作られたイベントに出かけていって、てっとり早くお金で面白さをも買うようになりました。
例えば、バーベキューは、河原や山の中で、食べ物や道具を工夫してその面白さと自然の心地よさを楽しむものです。しかし、この頃では、設備も材料も全て整ったバーベキュー場へ出かけていって、作られた自然を眺めて、「便利で楽しかった」と言う人が増えています。
また、おいしい食べものを心を込めて調理するという行為は、確かな愛情の表現であったはずです。同じハンバーグでも、買ったものと手作りのものでは心が込められているかいないかの大きな違いがあるはずです。この大きな違いを軽視して、作るよりも手っ取り早く買ってきて食べるようになりました。
このように、人の心のあり様よりも、物を重視する『物優先価値観』が支配的になってきたように思われます。どこかおかしくなってきていると思われませんか。私は、このことが、子育ち(子育て)を難しくしている根本の原因だと考えています。
2.若者に期待できる側面 
@潜在しているエネルギー
高校では、9月の初めに学校祭が行なわれます。生徒を主体にして活動させますと、普段とは比べものにならないようなエネルギーを爆発させます。例えば、集団演技と言いまして、色別対抗で男女が衣装に工夫を凝らしてダンスを踊るのですが、それはそれは目を見張るような演技を行います。このような演技を見ていますと、若者はエネルギーを潜在させているのだとしみじみ思います。成長途上にある若者には、エネルギーが潜在しているのだと思います。気力が充実されれば、無限なるエネルギーを造り出すことができるのだろうと思います。
A精神のしなやかさ
具体的な例でお話します。
昔、私が教科担任をしていたクラスで「集団万引き事件」がありました。女子5人が集団で万引きをしたのです。4人までは白状したのですが、1人だけは、「私はやっていません。先生、私を信じてください」と、泣いて抗議をしたのです。ついに鬼のような指導部長も根負けしてしまって、「よし、おまえを信じる。疑った私が悪かった」と、彼女を帰してしまったのです。
その直後が私の授業だったので、私は、授業の前に、若い頃の経験を話すことにしました。「先生は万引きはしたことはないのだが、中学生の頃、おばあちゃんの財布からお金を盗んだことがあってなあ。それも何回もだ。そしてついにおばあちゃんに見つかってしまったんだ。おばあちゃんが、目を伏せて、それこそ悲しそうな顔をしてね、『そんなことしたらあかん』と諭してくれた。私はあの顔を見て、物を盗むのは悪いことだと思ったし、それ以来、他人の物を盗んだことがない・・」
話の途中で、彼女が、さっと手を上げて「先生、指導部へ行かせてください」と言ったのです。彼女は、バタバタバタと指導部へかけていきました。そして指導部のドアをあけて、「私も万引きをしました。ごめんなさい。」と叫んだそうです。指導部長は、訳が分からずにポカーンとしていたそうです。
一度逃げ延びていながら、指導部まで走っていって、今すぐに言わなければ気が済まないというこの心理、二重の誤りを認めてでも真実を語らなければならないというこの心理、これが子供の『精神のしなやかさ』だと思うのです。子供は、皮膚一つ見てもぴーんと張りつめたしなやかな肉体を持っています。しなやかな肉体にはしなやかな精神が宿っているのです。時代がどう変わっても、若いからこそ、未熟であるからこそ持ちうる、この『精神のしなやかさ』を私は信頼しているのです。
もう一つ、具体的なお話をします。
かなり昔のことですが、私の周りに、盗癖を持っている生徒がいました。そして、ついに、私の財布にも手を出したのです。「追求して、もしそうでなければ、どれほど傷つけることになるか」と、長い間、悩んでいましたが、「自分の子供だったらどうするか」と考えた途端に答えが出ました。「もし本当に盗癖があるのならば、なんとかしなければ」と思い始めて、追求することにしました。長時間にわたって追求したのですが、一貫して否定し続けたのです。そのうちに、私もだんだん取っていないのではないかと思い始めてきたのです。
それで、「君の言うことを、信じたいと思う。みんなから盗人呼ばわりされて、つらいだろう。君と一緒に疑惑を晴らす努力をしたい。」と言った途端、「私が取りました」と白状したのです。次の日、その生徒は、追求されていない昔の盗みまで全て反省文に書いてきました。
そして、その生徒が卒業してしまい、忘れてしまっていた頃のことです。前年度に退職されていた先生が、感激の面持ちで学校へ来られたのです。昨日、あの生徒が、「昔、先生の財布からとったお金です」と言って詫ながら返しに来たと言うのです。
この反省文は、こどもの精神のしなやかさの証だと考えて、今でも私の宝物にしています。私の信頼は、だまされた信頼でしたが、それでもそのような信頼の中でこそ、人間的な成長の芽を見せてくれたのです。
B発達可能性
私は、さきほど、若者の対人関係能力や自己肯定感の低下を指摘しましたが、中学生、高校生、高校1年生、2年生、3年生と見ていますと、確実に成長しています。入学当初、1年生の間は友人関係でゴチャゴチャしますが、3年生になるとそれぞれが落ち着いてきます。
私は、子供は、純情で不純、あたたかくて冷たい、まじめでふまじめなのだろうと考えています。そして青年期とは、生理的な発達段階として、その両極を振幅大きく揺れ動きながら成長していく時期なのだろうと考えています。このような子供観を、私は『変化する子供観』と名付けています。
また、人間の能力は、記憶力、体力、運動能力、指導力などなど、千差万別、多様で限りないものです。学力はその多様な能力のなかの一つにすぎません。しかし、現代は、社会でも、家庭でも、学校でも、学力偏重価値観に支配されています。この点眼鏡をはずしてみると、どんな子供でも自分より優れた面を持っていることに気づくはずです。このような能力観を、私は『多面的な能力観』と名付けています。
この『多面的な能力観』には、学歴社会が続く限り無理だと言う反論があります。しかし、学歴社会が変わらない限り難しいと言う理由は、外的な条件です。本当の困難な理由は私たちの中にあるのではないでしょうか。私たちが、普段の生活で、レッテルや地位や学歴や見栄にこだわっていて、子供だけを多面的に見るということは難しいのではないでしょうか。普段の生活が、しなやかな価値観に貫かれていなければ、多面的に見ることも難しいのです。
年々様変わりしてきているこの頃の子供に対応するためには、私たち教師も保護者も、このような『変化する子供観』、『多面的な能力観』に立たなければ、子供不信に陥らされてしまうのではないでしょうか。私自身もそうであったし、誰もが青年期には、恥ずかしいような経験や言動を何度も繰り返して、少しずつ分別を付けてきたのではないでしょうか。私は、子供は、必ず、変化し、限りない成長の可能性を秘めていると確信しています。
3.家庭の役割を見直す
@『生活習慣』の重視を
あるカウンセラーの試み
ある学校カウンセラーが、典型的な無気力症で、退学志向の強い高校生とその両親に関わった話です。保護者に、家族が全員11時に就寝することと、豪華な朝食を心を込めて準備することをお願いしたそうです。それを続けているうちに、その高校生は早く寝て、朝食も食べられるようになったそうです。いつの間にか、学校へ登校することが苦にならなくなっていたと言う話です。それで最近は、この『就寝、朝食療法』でかなりの改善成果を上げているというお話を聞きました。 私たち教師は、無気力症や退学志向の生徒を前にすると、単純に「親が甘いからいけないのだ」と考えて、「家庭でも、学校のようにもっと厳しくしてください」と注文をしがちです。それで、保護者の方が、厳しくしてみたら、子供と深い溝ができてしまったり、子供が家を飛び出してしまって、問題をこじらせてしまうようなこともあります。第一部で現在の子供の危機とその背景についてお話しましたが、この危機的状況は、それらの背景が絡み合って構造的に生じてきているわけですから、親や学校が厳しくするだけで解決できるような単純なものではものではありません。
家庭の役割を見直す、4つの視点を考えてきましたが、健全な『食事』と、規則正しい『睡眠』は、若者が心身共に健康に成長できるために、第一に重視すべき必要条件です。家庭は基本的な生活の基盤です。基盤としての家庭の役割を見直す必要があると思うのです。
Aスマートな『マナー』を 
オーストラリアでの発見
今年の2月に英語コースの生徒を引率して、オーストラリアへ語学研修に行ってきました。この時に発見した家庭教育に関することをお話します。
昼休みのことです。この日、私は、弁当がなかったので、高校の弁当売り場へ買いに行きました。私が生徒の最後尾に並ぶと、その前の生徒が、「Teacher please・・・」と一番前まで案内してくれたのです。とてもハッピーな気分になりましたが、私たちの学校で、パンを買うときに、もみくちゃにされることを思い出して、同時に複雑な気分でもありました。
私たちの生徒がオーストラリアの先生から美術の授業を受けていたときのことです。隣の教室で待機していた中学2年生の代表が、先生の指示を仰ぐために教室に入ってきました。そして、彼は、先生の説明が終わるのを姿勢を正して待っていました。私たちの生徒の視線が注がれるので、時々もじもじして恥ずかしそうでしたが、5分間ほども説明が止まらなかったので、ついにそのまま指示を仰がずに一礼して戻っていってしまったのです。人が話をしているときには、決して割り込まないというスマートなマナーを身に付けているこの少年を、私は、感動しながら見つめていました。
大きなマーケットへ出かけたときのことです。ふらふら歩いていて、面白いものを見つけたので、私が急に振りかえって後ろ戻りをしましたら、後ろから来た若者とぶつかりそうになりました。その若者は、即座に「sorry!」と言って進路を変更したのです。「sorry」と言わなければいけないのは私のほうですから、なんだか負けたような気がしました。
このような少年がどのようにして育てられるのか、知りたいと思っていました。
そう思って、たどたどしい英文を考えて質問したのですが、案の定、英語でベラベラとまくしたてられてなんにもわかりませんでした。その一つの答えをホストファミリーの中で発見することができたのです。ある日、ファミリーが、私をドライブに誘ってくれたときに立ち寄ったレストランでのことです。食事の最中に、姉(8才)と弟(6才)がふざけてカードの取り合いになりました。それを見ていた母は、弟を「Come here」と手招きして、「Stand up!」と強い口調で命じたのです。彼を「ただし」にしたのです。10分間程経ったころ、今度は、彼の頭を何度も撫でながら「Sit down」と優しく誉めたのです。すると、すかさず、向かいの席にいた父が「Good boy! 」と付け加えたのです。また、姉が、コーヒーカップをガラスのテーブルに「ガチャン」と音を立てて置いたことがありました。今度は横にいた祖母が「レディーがそのようなことをしてはいけません。」と優しくたしなめたのです。そして、ぺろっと舌を出して、静かに置き直すと、祖父が「nice girl!」と声をかけたのです。
このようにして、家族みんなで子供をしつけていたのです。我国では失われてしまったしつけのスタイルもマナーを重んじる心も、この国では確かに根付いていたのです。私達、人間のもっとも遅れている欠点は、利己主義だと思います。スマートなマナーが、遅れている利己主義をカバーしてくれるのではないでしょうか。
B『共感の広場』に
『物』から『心』へ
心で心を満たす家庭とは、言葉を変えて言いますと『共感の家庭』です。共感の家庭とは、つらいときにはともに苦しみ、うれしいときにはともに喜んであげるという家族の集まりのことです。家庭では愚痴をいっぱい言って共感してもらえて、エネルギーを蓄積できるのです。家庭は、『管理の広場』ではなく、まず『共感の広場』であるべきではないでしょうか。
子供に『共感の広場』があれば、少しぐらい苦しいことがあっても、子供自身の力で乗り越えることができるでしょう。もともと子供はつらい思いをしたり、傷ついたりしながら成長していくべきものなのです。共感の家庭で育った子供は、かけがえのない財産を相続されたようなもので、この財産は、優れた漢方薬のように、一生の間、じわじわと効き目が表れることでしょう。
「あなたは、私たちのかけがえのない宝なのだから、苦しいときにはともに苦しめるし、困ったときには全力で助けるし、どんなときにも全面的な味方なのだよ」という親の深い思いを、普段から言動で示しておくことが肝心なのではないでしょうか。この親の思いが伝わるような普段の接し方にこそ工夫が必要だと考えています。
そして、家庭を『共感の広場』にする第一のポイントは、子供と話すときに、いつも親の立場だけではなく、時々、子供の立場に立って話すことだと考えています。
C『生きた体験』を
『あそび』心で
ムダな話をする『精神の余裕』と、楽しい行事をして『楽しむ』ことをあわせて、私は『あそび』と言っています。子供の心をつかむには、この『あそび』がもっとも効果があるように思われます。
仕事や勉強は意義があるけれども、『あそび』というと何か無駄なことのような否定的なイメージを私たちは持っていますが、『あそび』には、人と人を深く結びつけるという重要な意義があるのではないでしょうか。車のブレーキの『あそび』が、車をスムーズに走らせるために重要な意義を持っているのと同じように、私たちの社会においても、『あそび』は、人と人を深く結びつける重要な意義を持っているのではないでしょうか。 考えてみますと、私たちは、ある意味では、『あそぶ』ために生きていると言ってもよいような側面があります。遊びに行くことを楽しみにして、密かにがんばっているのです。私自身、生きている楽しみ(目的)は、ある意味では『あそび』だと考えています。この『あそび』をいかに見つけて楽しむかということを第一に考えて生きているのです。
先日、ある座談会に参加したときのことです。とてもおいしいケーキが出ましたので、「手作りですか」とお聞きしたら、「ええ私の高校生の息子が焼いたものです」と言われたのです。お聞きしましたら、そのお母さんの趣味がケーキづくりで、それを息子に教えたそうです。その息子が焼いたケーキを、お母さんが1000円で販売して歩いて、それが息子のお小遣いになるそうです。それで、息子はお小遣いが欲しくなると、日曜日には朝早くからケーキづくりを始めるそうです。なんとも微笑ましい『あそび』だと思われませんか。無理をして生きた体験をさせようとしても続かないものですが、このように親の好きなことに子供を引き込んで、『あそび』ながら、生きた体験をさせるようにできないものかと思います
また、先日、地区の敬老会でのことです。地区の子供たちの和太鼓の演奏がありました。聞きましたら、地区で和太鼓の好きな方が、地区の子供を集めて指導されていました。このように、大人の好きなことに子供を巻き込んで、楽しんむという余裕が大事だと思うのです。地域の合唱団や音楽団のサークルに高校生が参加している話を聞いたこともあります。
このように、家庭や地域で子供と大人が一緒に活動できる機会を増やすことが必要だと考えています。学校でも、先生と生徒が対等平等な立場であそべるような『余裕』が必要だと考えています。
「生きた体験」を通して、自分の興味・関心がはっきりしてきます。そして、私は「美容師でやっていきたい」、「看護婦になりたい」、「建築の仕事がしたい」、「料理人になりたい」というふうに自分の進路をきちっと捕えて、その仕事に喜びを見つけだし、自立して生きていくことが大事だと思うのです。少しでもランクの高い高校へ入って、ランクの高い大学へ入られさえすれば薔薇色の人生が開けてくるという考えは幻想になってきているのではないでしょうか。
4。おわりに
若者による凶悪犯罪はなぜ
これまでお話した、『無気力』『リアリティーの欠如』『自己否定』『生活リズムの乱れ』『社会性の未成熟』『自己中心性』『閉じられた世界』の否定的な断面を重ね合わせてみますと、近年の若者による凶悪な犯罪も、異常ではなく、これらの延長線上に必然のように見えてくるような気がします。日本の若者は危機的状況になっているのです。
若者の危機は、社会の危機でもあります。物優先価値観から心重視価値観へ、学力偏重価値観から多面的価値観へ、競争主義から共生主義へ、私たちの価値観を変えていかなければ、日本社会が内側から崩壊していくような気がします。皆さんも、若者たちの未来が楽観できないことを、薄々感じられておられるのだろうと思います。そういう意味で、若者の一断面を社会への警鐘だと考えて、私たち一人一人の立場で、それぞれの価値観と役割りを見直す必要があると思うのです。
お約束の時間を少しオーバーしましたが、時間がまいりましたので、終わらせていただきます。ご静聴していただきまして、気持ち良く話ができました。ありがとうございました。
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