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昔は石田山 西光寺としていましたが、万延元年(1860)関白九條兼実から直筆の「石田殿」の額を下賜されてから寺院としては全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となりました。本願寺7世存如が石田に道場を開くのは西光寺の建立とされる宝徳3年(1451)よりも10年程さかのぼる嘉吉年間(1441頃)であったと思われます。西光寺の1世には荒川興行寺(吉田郡上志比村)の長男永存を迎え、奥方に蓮如の妹、如祐をめとらせました。興行寺は本願寺6世巧如の弟、玄真を開祖とします由緒のあるお寺です。それから百数十年戦乱の世が続きました。天正3年(1575)西光寺5世真敬のとき越前の浄土真宗を信じる人達は武士の横暴な政治に強く反対して戦争になりました。
西光寺の住職真敬は、木の芽峠に山城を構えて信長勢と戦いましたが、力の差はどうすることもできませんでした。織田信長の軍勢は、瞬く間に丹南の地を蹂躙していました。真敬は木の芽峠で自刃しました。木の芽峠の城跡西光寺丸には弘化2年(1845)に建立された碑が立っています。
戦乱の世も豊臣秀吉の時代となって、漸く治まりました。浄土真宗の人達もだんだんと故郷に帰って来ました。しかし打ち続く戦乱のため、堂宇や宝物のすべてが焼かれてしまいました。文禄4年(1495)足羽郡東郷の城主、長谷川藤五嘉竹から現在の寺の敷地の寄進があり、この地に移転しました。
左の銅像:蓮如上人銅像
右の銅像:存如上人銅像
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