写真で訪れる蓮如の里
吉崎御坊とその周辺

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吉崎御坊(よしざきごぼう)
 福井県坂井郡金津町の吉崎山にあった浄土真宗の寺。寺跡は現在、国の史跡だが、江戸時代にこの吉崎御坊の後身として、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派それぞれが道場を山下に再興している。
1465年(寛正6)に大谷廟を延暦寺宗徒に破壊された本願寺8世蓮如は、近江(おうみ)へのがれ、さらに越前へとうつった。71年(文明3)に朝倉敏景(としかげ)の帰依(きえ)をうけ、加賀国境に近い細呂宜(ほそろぎ)郷の吉崎山に道場をたてて北陸布教の本拠とした。
道場周辺には多屋(たや:門徒たちの宿坊)がたちならび、隆盛をきわめた。しかし、一向一揆が加賀の守護職争いにまきこまれ、門徒の政治的な動きがはげしくなると、1474年には南大門の多屋から出火し、本坊などを焼失した。ついで翌年には朝倉敏景の弟経景の襲撃で堂宇のすべてをうしなっている。
この年、蓮如は滞在4年余で吉崎から畿内へ戻った。蓮如の退去直後に仮屋がたてられ、和田の本覚寺が留守職をつとめたが、1506年(永正3)の朝倉氏の弾圧に一向一揆が抵抗して敗北し、それ以降、廃坊となった。
1602年(慶長7)、本願寺は2つに分裂し、その後、本願寺派と大谷派が吉崎御坊の復興をめぐって争論となった。吉崎山は要害の地であるため、福井藩が山上での復興をゆるさず、両派はそれぞれ山下に道場をたてた。これが現在の両派の別院で、別院の近くには本願寺派の吉崎寺と大谷派の願慶寺がある。