和田山 本覚寺の案内 福井県吉田郡永平寺町東古市22−145電話0776−63−2055
 開基については諸説がありますが、親鸞ー真仏ー
専海ー円善と法脈を継いだ三河門徒系の信性を祖と
する考えが有力のようです。
 
 足羽郡和田庄(現福井市)に寺基を定めたのは十四
世紀頃と考えられます。
 
 信性の死後、門末は分裂、超勝寺もその時分立した
と伝えられています。蓮如上人が吉崎に北陸教化の
中心吉崎御坊を建立されたのも、奈良興福寺領河口
庄細呂宜郷の別当職や名主職を持ち荘官としても活
躍していた本覚寺蓮光の力によるところが大きかった
といわれております。
 
 蓮如上人吉崎退出後、蓮光は「吉崎殿」と称され吉
崎御坊の留守職を預かりました。永正三年(1506)一
向一揆により、加賀に逃れ、それより六十二年の後、
永禄十一年(1568)朝倉代と一向一揆勢の和睦に
より、ふたたび越前に帰りました。
 
 北庄城主堀秀政のころ、北庄柳町(現福井市)に移
り、万治二年(1659)の大火で類焼の後、表御堂町
に移りました。そして、昭和二十年の福井大空襲によ
って堂宇のことごとく焼失し、門徒の中心である現在
地に移り現在に至っています。
 
 真宗懐古鈔によりますと「よって和田の本覚寺と下
間安芸の法眼をもって、朝倉居城クロマルの館へ、
吉崎の地を請い給えば、敏景大いに悦び、蓮如上人
を尊教の思い深く。」と書かれています。真宗
懐古鈔
は真宗辞典には出ていません。従って民間の一書に
すぎないかもしれませんが、しかし朝倉敏景が黒丸
城に居たのは文明三年五月までで、その後は足羽川
上流の一乗谷に移っていますので、年代的には合っ
ています。
 
 蓮如上人遺文に「吉崎事留守之儀、於今無等閑事
候間、悉皆それの可為計候間、心安く覚候。仏法不
思議之事候間、さのみ煩もあるましく候。乍去老体の
事候間、御身労推量申候。愚老も事外老屈候間、迷
惑こそ候へ、毎事期後言候。恐々謹言。五月十日 
蓮如(花押) 本覚御坊
 
 このお手紙により「吉崎の事、留守の儀。心安く覚え
候」とあり、本覚寺にすべてを任せて安堵しておられる
上人の御様子が伺えます。

左上の写真:蓮如上人御消息(本覚寺宛書文)
左下の写真:蓮如上人筆 九字の名号