『やってみる数学』がうけた理由を考える

 

 「やってみる数学」がうけた理由を考える

                                                 大久保裕介(福井県)

 

1.はじめに−−−なぜ「やってみる数学」か

 私は、数学教育の最大の欠陥は、授業の主流が、入試問題を解くための「解法主義」に陥っていることにあると考えている。「解法主義」では、教師も生徒もテスト範囲を網羅することと、点数が取れることだけが授業の目的にならざるをえないし、また、後の高等数学を学ぶ準備としての位置付けしかない数学、意味抜き、実在から遊離した計算力重視、応用軽視の数学教育にならざるをえないからである。

 本来の学習とは、生徒の既成の現実世界と係らせながら、その世界を広め深めていくことであるはずである。学習にはそのような充実感があるはずである。そして、そのような授業であるためには、授業の内容と方法において、生徒の生活や経験と係らせて考えさせることが必要条件である。

例えば、2つの放物線で囲まれた面積を定積分で求めたとしよう。解答集を見て答えが合ったとしよう。私たち数学の教師は、定積分で求められることを何度も経験しているので、確かに正しいことを納得できるが、初めて学習した子供たちは、確かに正しいと納得させることは難しいのではないだろうか。人が、確信できるのは、演繹的に証明されたからではなくて、帰納的に何度も体験して(やってみて)確信するのではないだろうか。

 しかし、受験体制の中では、効率よく受験知識を詰め込むことが要求される。学問とは、すべて現実と深く係りあっているものであるが、生徒の現実とかけ離れた受験知識は、生徒にとっては、単なるひからびた真理にすぎないのであろうと思われる。

 この受験知識は、入試という場面や卒業証書と取替えられるときに、主な値打ちを発揮するものである。入試を通過しない生徒にとっては、価値のうすいものである。

このような文脈に沿って考えると、「学習意欲がおきない」、「授業に集中できない」、「退学したい」、「授業が理解できない」などといった「学習拒否」、「退学志向」の広まりも自然のことだと理解されてくるのではないだろうか。

 以上のような考えから、私は、できるだけ具体的な事物に実際に当たりながら授業をするように心がけている。そのような具体的な事物に当たりながら進める数学を「やってみる数学」とよぶことにしている。出来るだけ多くの定理や公式と、その使い方を教えこむという姿勢ではなく、数学的認識の世界を広げる体験をたくさんさせるような授業をしたいと考えている。

2.「やってみる数学」の例

 以上のような考えに立って工夫した「やってみる数学」の中から、生徒にうけたと思われる授業例について、いくつかの例を紹介する。

@内分点の公式を応用した多角形の重心

 この授業は、厚紙方眼紙に三角形や階段図形や台形や任意の多角形を書き、その重心を内分点の公式を利用して求める授業である。単元『内分点』の到達目標にしている。

 そしてその図形を切り抜いて、求めた重心を太いペンの先で支えて釣り合うことを確かめる実験である。更に、そこに爪楊枝をさして、コマ回し競争をして終わることにしている。

 さらに発展させて、任意の曲線で囲まれる図形の重心を定積分で求める実験も考えられる。 

下図は、普段は意欲を見せなかった生徒が、「昨日、徹夜をして考えてきた・・・」と言いながら提出してきた課題の一部である。他にも多くの生徒が、発展的な問題を作り、課題を提出してきた。

A三角形の外接円

 この授業は、座標平面上にとった任意の3点から等距離にある点を計算で求めて、その点を中心にして外接円を書く実験である。

 この計算は三元連立方程式を解く練習にもなっている。距離の公式や連立方程式の解の意味について、理屈で納得させることは難しいが、自分で任意に取った3点から等距離にある点が計算で求められ、その結果が現実と一致する(外接円がかける)ことによってそれぞれの意味を理解させることのほうが確かである。

 1時間で計算が合わずに、プリントを持って帰り課題をやり遂げる生徒の多い授業である。

B天秤で確かめる多角形の面積

 この授業は、厚紙方眼紙に書いた任意の三角形や四角形の三辺の長さを測り、三辺の長さから余弦定理と三角比の公式と三角形の面積公式などを応用して面積を求め、その面積と同じ大きさの矩形を厚紙方眼紙から切り抜き、天秤でつりあうことを確かめる実験である。

 さらに、発展させて2つの放物線で囲まれる図形の面積も天秤でつりあうことを確かめることにしている。

C実験で確かめる確率

 確率は起こりやすさの尺度で、期待値は予想される平均値であることは、理屈の上では説明することができるが、納得して理解させることはできないと考えている。私は、数学的確率(計算)や期待値は、すべて実験で確かめることによって、その意味(現実とのかかわり)が理解できるのだろうと考えている。実験を通して確かめ、現実との関わりが納得できたときに、その意味が分かったと言えるのだろうと考えている。

 だから、確率の授業は、すべて実験と並行して進めることにしている。

 確かに実験や問題づくりには時間がかかるけれども、だからといって、実験や問題づくりを抜いたドリル中心の授業では、問題は解けるようになるけれども、本当の意味は納得して理解できていないということになるのではないだろうか。そのような意味の抜けている「学習」を強いることにどれほどの意味があるのだろうかと常日頃考えている。

 これらの例のほかにも、円の方程式を用いて外接円を書く実験、正弦定理や余弦定理を用いた三角形の解法を実測して確かめる実験、容積最大の箱作りの実験などなどの例が考えられる。

3、おわりに---うけた理由は

 これらの授業は毎年のようにやっているが、いつでも生徒を意欲的にさせられる授業である。授業時間内では完成できず、休み時間や、放課後や、時には家庭で考えて、完成作品を提出してくる生徒が出てくる授業である。

 このように生徒が意欲を出せる理由(うけた理由)をまとめると次のようなことが考えられる。

@    他から与えられた問題ではなく、自分で作った自分独自の問題である。

この自分独自の問題を自ら解くという『自律性』が『意欲』と深くかかわっていると考えている。

A    生徒の計算力に『適合』している。

B    結果を解答集で確かめるのではなくて、現実そのもの(釣り合う、外接円が書ける)で確かめることができる。この『現実との適合性』が、知的好奇心に結びつくのではないかと考えている。学ぶことの意義は、理屈で理解できるのではなく、生徒の現実(生活や体験)と係っていることによって確かに理解されるのだろうと考えている。

C    その生徒の好奇心や計算力に応じて『発展的』に考えていける。

D 操作や作業や実験が組み込まれていて、生徒が主体的に活動し、能動的に考えていける。

  E ゲーム的な要素があり、面白く熱中できる。

これらの要素が、生徒の学習意欲につながるのだろうと考えている。

また、このような内容は、受験知識と対立するものではなく、むしろ、形骸化した受験知識にその意味を与えてくれるものであり、受験知識そのものの内容をも深めてくれる働きをするのであろうと考えている。

しかし、一方では、現実の問題として、受験知識も軽視できないわけで、受験知識とこれまで述べてきたような内容、方法とのバランスが必要である。