めがねと福井 その二
増永一期生
大阪の眼鏡職人、米田与八を迎えた増永家はにわかに活気づいた。五左エ門の奔走で集まった増永末吉、沢田五郎吉、増永三之助、佐々木八郎ら、後に、"増永一期生"と呼ばれる数人が、眼鏡作りに挑戦し始めた。
工場は、かつて羽二重作りに使っていた四間に七間の建物である。二階に住み込んだ米田は、真鍮(しんちゅう)線を使った「真鍮枠」と、防塵(ぼうじん)用や草取り用の、レンズ代わりに網を張り付けた「馬車めがね」を手ほどきした。
米田そのものが、いわゆる上物の職人ではなく、真鍮の安物専門だったらしい。「手始めにやさしいものから」という橋本清三郎(大阪の眼鏡卸商)の配慮があったに違いないが・・・"増永一期生"の技術習得に対する情熱はすさまじく、わずか半年で、覚えてしまったという。
出来上がった製品が、すぐに売り物になるわけではなかった。初めは、ほとんどが試作品。それが過ぎ、商品として大阪へ出しても、幸八や増永伍作が卸屋を飛び回って、やっと売れるという代物だった。五左エ門自身も、福井市内の小間物店や時計屋を試験的に売り歩いたが、結果はかんばしくなかった。
当時、眼鏡を使う人はそう多くなかった。明治三十年過ぎごろから、四国の行商人が、大阪で仕入れた老眼鏡を一個十五銭ぐらいで売り歩いていた、という。福井市内で扱う店も小間物やが多く、眼鏡専門店が旧京町(照手一、二丁目)に一件あっただけらしい。
時計店でも眼鏡を扱っていたが、主に大阪から仕入れた品物が多く、新興の"増永めがね"が、そう簡単に売れるはずがなかった。
五左エ門は、真鍮の安物めがねを前に、「やはり、上物を売り出さなくちゃならない」と思ったようだ。大阪から呼んだ職人の米田は"増永一期生"たちの技術習得が早く、居づらくなったせいか、既に引き揚げていた。優秀な技術導入こそ先決だ、と心に決めたとたん、すぐさま大阪の橋本のもとへ飛んだ。
橋本は、五左エ門の申し出に答えていった。-いきなり上物をねらうのは無理だと思って米田を出したが、覚え込みの早い生野の人たちには驚いている。一人、いい職人がいるから、それを紹介する-。そんなやり取りの中から、豊島松太郎の生野派遣が決まった。
豊島は、金張り製品の名工で、東京の大岩金之助の門下生の一人である。橋本もその腕にほれ込んでいた。その豊島が生野入りしたのは明治三十九年の夏頃。米田を招いて"増永一期生"たちが技術を学んで一年たつか、たたないころだった。
豊島は「銀縁(ぎんぶち)枠」や金と銅の合金でできた「赤銅(しゃくどう)枠」など東京や大阪でもてはやされていた当時の"先端技術"を必死で伝授した。一刻も早く技術を身につけ"増永めがね"を盛りたてようという職人たちは、血まなこで学んだ。
産声を上げたばかりの増永工場の眼鏡作りは、すべて手作業だった。機械化と自動化の進んだ現在の眼鏡工場からは想像もできないか、生野にはまだ電気さえ入っていない時代である。原始的といわれても仕方がない。
指南役の豊島松太郎は、"増永一期生"とそれに続いて入ってきた佐々木久志ら十数人を相手に、赤銅(しゃくどう)を原材料とした枠作りを進めていた。
当時の記録などを元に、枠作りの手順を再現してみると。
まず、松炭とコークスを燃料として「手フイゴ」で火力を強め、合金素材を溶解する。鋳型に固めて「インゴット」を作った。これを「金床」の上に置く。大槌で打ち伸ばし、適当な厚みにして「台切り」という大バサミで切断する。それを中槌で丸や角型に荒作りしたうえ、「なまし」と呼ばれる木製の引き伸ばし機で「丸線」「角線」「溝線」「太い線」「細い線」に伸ばす。
ここまでは、枠の材料作りといってよい。ここからは、自分たちで作った型鏨(かたがね)をもとに鏨打ちして、ヤスリをかけ、ヤットコで形曲げをする。次は石油ランプの炎のしんに、ゴム管を付けたパイプで息を吹き込み「ロー付け」作業をする。磨きには「キシギ」やペーパーをかけ、「朴(ほう)炭」で研ぎ、桐の棒で荒磨きした。仕上げ磨きは鋼の厚板に水や唾液をつけて行う。
最終工程は、「調子取り」と呼ばれた総仕上げである。これが一番難しいので熟練者の担当だった。この段階では、売り物にならない不良品、欠陥品は「粉うけ鉢」に捨てられる。徒弟奉公に入った者は、まず、一番に「粉うけ鉢」の粉選び作業(マグネットを使い切りくずや不出来な枠を仕分ける)をさせられたという。
"増永一期生"
沢田五郎吉 |
鯖江市別司町の出身。五左エ門の説得で最初に眼鏡職人を志した増永末吉の妻の親戚。二十三歳でこの道に入り、丹羽徳松(ツーリング眼鏡創業)、大平金治(大平眼鏡創業)らを養成。 |
増永三之助 |
生野出身。十三歳で増永工場入り。修業の後、銀枠づくりに取り組んだ。後に京都に出て製造と小売店を営む。 |
東郷左五郎 |
大阪で眼鏡作りを習い、五左エ門の招きで増永入り。赤銅枠専門の職人としてならすと同時に、経営手腕も発揮。五左エ門の片腕となって働く。昭和四十四年福井の東郷家を継ぐため独立。村井勇松(村井創業)、田中教作(田中教作商店創業)、辻国松(辻めがね創業)らの後進を養成した。 |